―58年前の北九州周遊の旅―
修学旅行実行委員会
阿蘇では、我々修道健児が58年前に宿泊した旅館『五岳荘』へと向かった。『五岳荘』の看板は『阿蘇五岳ホテル』に変わってはいたが、58年前と同じ場所に木造からビルに変容して現存していた。玄関を入り、受付のオーナーに「我々は58年前の修学旅行でこの『五岳荘』に泊まったのです」と伝えると「58年前と言えば、私が生まれた年ですよ」と答えた。「なるほど、代が変わってもおかしくない年月が経っているのだ」と一同改めて己の年に納得した次第でありました。『五岳荘』はオーナーと適当に歳とった二人の彼の娘とお手伝いのおばさん二人が働いていて、極めてこじんまりとした家族的な宿である。それなりに経営はかなり厳しいであろうと推察された。温泉は入湯税150円を要するが、内湯、かけ流しで何回入ろうが構わないというシステムになっている。早速、温泉に浸かり、浴衣に着かえて、食堂に集合して、宴会の部に入ることに衆議一決した。
まず、恒例により、生ビールで乾杯した。テーブルには大皿に牛肉が山盛りに用意され、白菜、シイタケ、エノキダケ、もやし、春菊が牛肉に負けずと盛られている。熊本まで来て、馬肉の刺身を食さずに帰っては修道健児の名が廃ると別注文をしたところ姉娘が「五切れ位なら馬刺しもついていますよ」ということなので「それならそれで十分である」と納得した。その他は、鮭の燻製、蕨、とろろに香の物がついて出てきた。肉は脂身が多いので「牛肉じゃろうか?豚肉じゃろうか?」と物議をかもしたが、私が「確か、吉野家の牛丼にはこのような肉を使用している」と強く主張したなら「なるほど!」と全員納得した。阿蘇の地酒を追加注文して、山のような食材をあまたず平らげて部屋に引き上げた。 予約当初は3人部屋で、1人はソフアーを倒しての簡易ベッドということであったが、部屋が空いているということで、運よく2人部屋ということになった。折角、車中で阿弥陀籤まで引いて、正規のベッドの獲得合戦の熾烈な争いを繰り広げたというのに、すべての労力は無駄に終わった。
『五岳荘』の朝食はロースハム、温泉卵、きんぴら、糸コンニャク、くまもん納豆。なじかは知らねど、デザートにコーヒーゼリーがついて出てきた。
姉娘に送られて、『五岳荘』を出発したのはいつもの通り午前8時30分。
あのような至れり尽くせりの《お・も・て・な・し》で一人5000円とはどんなに考えても、ホテル側の割が合わない。きっと「『五岳荘』は赤字に違いない」と全員なんだか腑に落ちない。念のために、会計が車の中で明細を読み上げてみることにした。
「ありぁりゃ?最初に飲んだ生ビールが抜け落ちとるで!あのばあさん、後で怒られるかも知れんで?こりゃ、引き返して、金を払わんにゃーいけんじゃろう?」ということに意見が一致して、『内牧』の街外れまで来ていたにも関わらず、再び『五岳荘』まで引き返して、不足分の生ビール6杯分〆て3300円を支払うことにした。
受付の姉娘はホテルの前まで走り出て、車が走り去るまで、感謝の意を満面に表して、礼を繰り返しながら、ちぎれんばかりに手を打ち振って見送ってくれた。
「今度58年後に来た時、『五岳荘』に泊まりづらいけえのー。まあ、これで気が済んだわい」と72歳の老人達は極端にケチな割には善良な一面をも内に秘めているのであった。
まずは『大観峰』に登って、阿蘇の外輪山の眺望をゆるりと眺めることにした。展望台からは阿蘇の五岳が一望できる。『大観峰』の名付け親は熊本県生まれの『徳富蘇峰』である。58年前、女学院の生徒が外輪山のデコボコ道を我々修道健児の毒牙から身を守るために、賛美歌を歌いながら、隊をなして歩いていたのを懐かしく思い出していた。
『阿蘇五岳(ごがく)』はまるでお釈迦様が寝そべっているように、向かって左端が顔で、右に向かって、胸、へそと言う順番に見える。6人の老人はよく晴れた澄んだ空気に包まれて、その時まるで心を洗われるような気持でいた。
一度外輪山の内側に下りて、ナビにつられて、ゴルフ場に迷い込んだりしながら、『米塚』(こめづか)に向かった。山頂が可愛くへこんだ米塚を車窓より眺めながら、『草千里』に到着するとたちまち展望が開けて、二つの水たまりを抱えた広大な草原が目に飛び込んで来た。ここから、噴煙をたなびかせている『中岳』の噴火口は眼の前である。
硫黄の塊を売っている商売上手な爺さんが「今日のように、噴煙が右に流れている時は、残念ながら噴火口には近づけません。ここで記念に硫黄を買って下さい」と叫ぶのをしり目に、遥かに見える中岳に続くつづら道を行ける所まで行ってみることにした。600円で通行券を買って、どうにか草木も生えていない殺風景な中岳の山頂まで辿り着いた。
ガスが流れているので「心臓に障害のある人や喘息の人はご遠慮ください」と注意はされたが、ここまで来て怖じ気づいては、またまた修道健児の名が廃ると硫黄の匂いが充満する中を勇を鼓して前進するのであった。火口の直ぐそばのコンクリートの避難所というか?トーチカというか?までは係員がロープを張って入場を許さないが、見晴し台の建造物までは歩いて行けるので、ギリギリまで噴火口に近づいて溜飲を下げることにした。またいつか、噴火口には挑戦する積りである。
温泉は内牧で充分に堪能したし、別府の温泉はパスして、その日に鳥取市まで帰れれば帰りたいという仲間もいることだし、いささか旅にも疲れて来て、少し我が家の寝床が恋しくなってきていた六人の老人は明るい中に広島に着きたいという欲望が芽生えてきていた。九重の山並みハイウェイを抜けて、別府に寄ると広島に到着するのがどうしても深夜になりそうである。そこから、それぞれが自宅に散っていくにはチトしんどいと判断したのである。まだまだ、我々の欲望の旅は今後も果てしなく続くのであるから、ここらで妥協も必要である。勇気をもって中止することが長い人生には大切なのである。
ひと月後には、また6人の乗員を募集して日帰りで、『大浮世絵展』を山口市まで見に行かなければならないのである。これが第7回目の『プチ修学旅行』になる予定である。
一路、熊本まで引き返して、高速道路『九州自動車道』に乗って広島を目指すことにした。熊本のサービスエリアで950円のチャンポンを食して、最後のグルメ旅行の締めとした。後はサービスエリアで買い物をしながら、気ままに車を走らせることになる。車は中国自動車道に入り、山陽自動車道を抜けて、一路広島に向かった。
3泊4日の旅は終わった。全走行距離は1217キロ。記録写真の代金一人1000円余。ガソリン代20000円弱。高速料金は半額で20000円を大幅に切り、一人当りの旅行の全費用は35500円を切るという貧乏旅行であったが、内容はと言うと贅沢の限りを尽くしたものであった。
後日、旅を共にした全員の『修学旅行の感想』が徐々に便りで届いてきた。
「一生の思い出に残る非常に愉しい旅だった。特に車中での会話が一番楽しかった」と言うのが共通する言葉として我々の歴史に残った。