寄稿

修道中学6組会『第9回プチ修学旅行』を終えて

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―最早プチとは言えない大人の修学旅行『近畿地方の旅』―

 今を去ること高校2年のある晴れた午後、今も修道学園に残る唯一の施設『25mプール』の小高い芝の土手の上にすっくと立った一人の学生がいた。
 彼は集まった高校2年生を前にして大演説をぶった。彼の名は鈴川通久、通称『貫一』。中国配電の中興の祖である彼のおじいさんの名を採ったあだ名であった。
 「我々高校生も中学時代と同じように修学旅行の実施の権利を要求する!」と言う内容で、まるで後の全学連のように声を張り上げて、あどけない聴衆を前に生声で演説をぶった。
 その大演説に机上の勉学よりも実学の方を重んじる我々素直な高校生はその場でこぞって賛成の意を表明した。
 かくて、生徒会を動かし、ひいては教職員を動かし、開闢以来の高校での修学旅行が実現した。
 修道中学で広島女学院と一緒に北九州一周の修学旅行に行ったのも我々学年が最初で最後。修道高校に商業科が無くなったのも我々の学年から。更に高校1年の時にはあの有名な『売春禁止法』が発令された。多感な少年たちはかくも激動の時代を生き抜いて来たのであった。
 高校での修学旅行の行く先は『近畿地方』に決定した。この度その時の資料が残っていないかどうか調べてもらうように事務局にお願いしたところ、その旅行が急遽決定したこともあって、学校の資料室には一切記録が残されていなかった。
 致し方なく、当時その修学旅行に参加した同級生に問い質してみることにした。その結果、人間の記憶力というものがいかにいい加減なものであるかということが判明した。
 おそらく3泊4日くらいの修学旅行であった筈であるが、当時参加した生徒の頭の中には鮮明な記憶というものが殆んど残っていなかった。
 そこで当時のアルバムを紐解いてみることにした。驚くべきことに、修学旅行の訪問先はあらかたの関西の著名な観光地を網羅していたのであった。
 その内容は行き着く間もない観光バスの強行軍の旅であった。すなわち、大阪城天守閣、法隆寺五重塔、薬師寺三重塔、東大寺大仏殿、奈良公園、吉野山、平等院、比叡山山頂より琵琶湖及び京都府内を望み、金閣寺、銀閣寺、嵐山、太秦松竹撮影所(ここで『二等兵物語』の花菱アチャコ氏を垣間見る)、清水寺と広く薄くという趣旨が充分に窺える修道らしき急ぎ旅であった。
 一方、生徒と言えば、夜中の遅くまで枕投げをして、ろくろく睡眠をとらず、バスの中では夜の乱行がたたって、「うつらうつら」の白河夜船。ほとんどバスガールの顔しか覚えていない体たらく。
 かくて、大学受験地獄を直前にした高校時代の修学旅行はなんの感激も無く、なんの支障も無く無事終了したのでありました。
 さて、今年度74歳を迎える節度ある我々熟年生の今回の『プチ修学旅行』ではとてもあんな若い時のような強行軍なぞ思いも及びません。
 今回の『プチ修学旅行』のコンセプトは桜の時期の日本一豪勢な『お花見』を体験するというものであった。厳選した結果、決定したのが奈良の『吉野山』と京都の『醍醐寺』であった。
 奈良の観光協会に問い合わせたところ、吉野の桜の見頃は3週間目と言う。素直を絵に描いたような我々修道生はその言葉を信じて、2015年4月14日(火)、15日(水)、16日(木)の2泊3日を討ち入りの日と決定した。
 そこで、関西方面に滞在する中学時代の同級生5人と、鳥取からバスでホテルに駆けつけて夕刻ホテルで合流する1人の同級生に我々6人の広島組の合わせて12人全員に3日間の全スケジュールとそれぞれの携帯電話番号を5枚の文書にして各員に郵送しておいた。
 尚、旅の携行必需品は携帯電話番号と旅のスケジュールが書き込まれた用紙。
これはもし迷子になった場合即電話連絡をするためである。年令、身分を証明する証書(免許書等)。これは身体障害者の場合、本人と付き添いがタダになる場合があることと、70歳以上は入場無料という特典がある場合があることを見込んでの準備である。タオル1枚。何時温泉に入ることに衆議一決するか判らないため。替えの下着。お漏らし、あるいは、美女(舞子等)のお誘いのため。ハイキングシューズ。舐めてはいけない。もともと吉野は修験者が辿る険峻なコースなのである。かくて、すべての準備に怠りないよう心掛けた。
 14日(火)。例によって、8人乗りのワゴン車『アルファード』に広島から6人が乗り込んで朝8時に出発した。
 初日に伊丹空港において、中学時代の同級生に58年ぶりに会って旧交を温めるという感涙のシーンを用意した。正に中学卒業以来の邂逅である。手土産も『やまだ屋の桐葉果』、モンキーバナナ1房10本、カープ坊やのアサヒビール1缶、もらい物の駄菓子2袋のお裾分けというと大盤振る舞いである。これを手始めとして、午後2時からは『天満天神繁昌亭』(1人2000円)で落語を堪能するという緩い修学旅行の行程からスタートした。

1-1DSC_0013.JPG 勿論、夕刻からは宴会の部が開始される。大阪に滞在する3人と鳥取から合流した1人を加えて、総勢10人が60階建て、高さ300メートルある現在日本で1番高いビル『あべのハルカス』の隣りのAITビル地下1階にある『酒蔵・男はつらい』に繰り込んだ。

2-1K2S_7554.jpg ここでは久し振りに大阪在住の同級生に会った勢いで、ぐっと張り込んで3500円の『飲み放題・食い放題』で行くことにした。ここでも合流した4人の同級生に手土産としてモンキーバナナ1房とカープビール1缶を手渡すことにした。

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8-1DSC_0061.jpg 2時間の制限時間いっぱいに飲み喰いして、大阪の友人と別れて、7人は勇躍して環状線寺田駅近くの『ホテル1・2・3』へと向かった。ホテル代はシングルで一人一泊5400円である。
 勿論、10時までは一室に集まり一杯やりながらの反省会は欠かさない。

 明くる15日(水)はホテルを8時半に出発。『近鉄快速特急』に乗って、奈良県の秘境『吉野』へ向かった。

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 昨日は終日雨模様であったが15日は霧雨程度の曇り空。充分に傘なしで歩ける。
 『吉野駅』よりケーブルカーに乗って、桜の名所『下千本』まで行き、そこから延々と『竹林院前』まで歩かなければ頂上まで行くバスは無い。
 『中千本』に辿り着いてもなかなか満開の桜の花びらにはお目にかかれない。

10-1DSC_0087.jpg どうやら、ここ吉野でも今年の春は例年より開花時期が早まり、最盛期はずっと雨模様でお花見日和は皆無であったという話である。
 延々と続くお土産物店や、食堂や、旅館街の急峻な坂道をのんびりゆったり登って行って、『上千本』に着いても、桜の花びらは風に乗って、どこかに運び去られたようであった。
 残るは『奥千本』だけと老体に鞭打って、どうにかこうにか『竹林院』まで辿り着いて、ここからバスに乗って、奥千本を目指すことにした。
 それぞれが600円出してバスの切符を買うことにした。「切符売り場からバス停まで400メートルある」というので、そこまで歩いて行くと乗客の行列は途中で50人くらいに区切られていて、更に上まで歩いて次の行列に加わらなければならないというシステムになっている。3回並ばされて、漸くバス乗り場に着くと、25人乗りくらいの小型のマイクロバスが数台ピストン輸送している。
 バスの混み具合をつづら折れの道で目隠しして、乗客に見えないように細工をしている完全な詐欺商法である。
 「騙された!」と言いながらも、善男善女の乗客たちはここまで登って来るのに充分に歩き疲れているので、ただへらへら笑って、成り行きに身を任せるしか身の処しようがない。
 奥千本からバスで下ってくる観光客は、素直に並んでいる乗客を見下すように「雨は降ってくるし、霧でかすんでいるし、奥千本もダメダメ」とつぶやきつつ、ニヤニヤしながら下って行く。
 新たな乗客は既に切符を買い、延々と並んだ後であるから、引き返す気力も失われている。ここは『奥千本』を極めるしかない。
 漸く乗り込んだバスの中で、とてもじゃないが足元の悪い山道を歩いては登れないことを認識させるつづら折りの狭いアスファルトの道路をマイクロバスは左右に揺れながら登って行くのであった。
 バスの終点に着くとさらに急峻な石畳の坂道が前を阻んでいる。7人の修道生はこの坂を登り切ると『奥千本』の桜並木が待っていると希望を抱きつつ重い足を引きずるようにして、上へ上へと登って行くのであった。坂の上では多くの観光客が休憩小屋に屯していて、「もうこれ以上は1歩も動かないぞ」という目つきで長椅子に屯している。
 ここは標高700メートルということである。我々老人もここで遂に力尽きた。心を一つにして小便をし、登ってきた坂を下ることにした。
『奥千本』では桜の老木が切り倒され、若木ばかりが咲き誇ってはいるもののいかんせん迫力に欠けること甚だしい。「まあ、運が悪かった」と諦めるしかない。

11-1K2S_7541.jpg 桜と言うものは儚いもので、春の雨にも春の風にも翻弄されて、見頃と言うのは一瞬である。それが故に愛されるのかもしれない。
頂上付近はかなり強い風が吹いていて、体温を奪う。それでも、チョットだけ薄い新鮮な空気を肺一杯に吸い込み、遠く見晴らせる山並みを遠望し、充分に満足した。最早一歩も歩く気力の無い修学旅行生は帰りもバスに乗ることに衆議一決した。

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 『竹林院前』で、我々と同じように延々と並んでバスを待っている観光客に「奥千本もほとんど桜の時期は終わっているし、寒いし、登っても無駄だと思うがなあー」と聞こえるか聞こえないような声で互いにささやいて意地悪をする。悔し紛れに、皮肉れ爺さんに堕しているのが実に情けない。
 下りは幾分楽なので、気分は上々。『西澤屋』というこじゃれたお食事処に腰を落ち着けて、1人前1050円のそば、あるいは、うどん定食を注文する。
 吉野で『柿の葉寿司』を食すというのが当初の予定になっていた。柿の葉寿司が2個付いて出て、デザートに葛羊羹もついて出て来るという筋書き通りの顛末で、実に申し分ないとこぞって大満足。

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 下りはケーブルカーを使わず、薄日の射しはじめただんだら坂を名残の桜を眺めながら、楽しい遠足気分で吉野駅まで歩き収めた。

16-1DSC_0107.JPG17-1DSC_0110.JPG 帰りは『新快速』に乗車して、一路大阪阿倍野駅から環状線に乗り換えてJR天王寺駅を目指した。大阪名物新世界の『串カツ屋』が今夜の宴会の場なのである。
 水曜日ということもあり、サラリーマンの姿もチラホラ。『ピリケン』の大型フィギアが鎮座している串カツ屋が『通天閣』までヅウーッと軒を連ねている。
 通天閣の下で会計を任されている修道生が遂に愛想を振りまく、引き込みの姉ちゃんにキャッチされ18-1DSC_0115.JPGてしまった。1500円の割引券に目がくらんだのである。全員ふらふらと若い姉ちゃんに誘導されて『串かつ・いっとく』に入って行く羽目になった。広い店内には会社員風の男女4人の先客がいるだけで、ほとんど貸切状態。
 まずはジョッキで生ビール6杯とウーロン茶を1杯注文し、乾杯をして、名代の串カツに挑戦することにした。

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 取り敢えず、『本日の串カツ・20本セット』を注文して、後はお好みをそれぞれが注文する。いか、たこ、レンコン、ししとう、山芋、にんにく、なすび、じゃがいも、玉ねぎ、ねぎまぐろ、鶏もも、ささみ、ししゃも、いわし、かぼちゃ、えび、きす、ミニトマトとテーブルの上は正に戦国乱世。
 すべて串カツであるから、これが喰って見なければ、中身がなにか判らない仕掛けになっている。ついつい余分に注文をしてしまう。
 結局、お一人様10本平均の串カツを胃に収めて、漸く、満足した次第であります。
 生ビール以外には黒霧島、白波、知心剣の酎ハイと赤ワインを注文して、さて、本日のお勘定はと言うと、1500円の割引券を有効に使って、お一人様占めて2200円弱という大盤振る舞い。
 JR環状線で寺田駅に帰って、今夜の反省会のために『たこ焼き』を1パック購入して、一部屋に集まった。

 明くる16日(木)は関西最後の日である。まずは京都駅までJR新快速に乗って、本日のターゲットである『醍醐寺』に向かった。
 大学時代に4年間京都で暮らした生徒が7人の中に2人もいるにもかかわらず、京都駅で醍醐寺行のバスを探してもなかなか見つからない。それほど京都駅の周辺は昔と様変わりしていたのである。
 結局、バスは時間帯が悪いということで、地下鉄を利用して、穴の中を延々と走り回ることになった。
 地下鉄東西線の醍醐駅で下車して、真新しい新興団地の坂道を連日テクテク歩く羽目になった。幸い本日はお日和も良く、団地の中の坂道の両サイドは八重の桜が満々と咲き誇っている。
 団地を登り切ると醍醐寺の総門が目に飛び込んで来る。その総門を抜けると目に鮮やかな唐門が左手に見える。この奥が『三宝院』である。広大な醍醐寺の敷地を更に進むと『西大門』にぶち当たる。ここから奥に進むには一人600円のお布施が入用である。
 幸いにも仲間内に一人すこぶる元気な障害者がいるので、付き添いを含めて2人分はタダになる。
 紅白の桐の葉文様の幔幕が張り巡らされた参道を進むと国宝の『金堂』が目の前に迫って来る。道路の反対側には同じく国宝の『五重塔』がいかめしく屹立している。さすがに国宝だけあってその重厚感は圧倒的である。

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23-1K2S_7566.jpg さらに境内の奥に足を進めて行くと、まるで置物のような陸亀が甲羅干ししている興趣のある池があり、朱の太鼓橋を渡るとそこは『弁天堂』である。その太鼓橋の手前に『阿闍梨寮・寿庵』というこていな料亭があり、湯葉料理を食すことができる。
 今回の旅行ではここで湯葉飯を食すことがスケジュールに組み込まれていたので、ここでゆったり昼食を摂ることにする。
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 朝の食事をいささか摂り過ぎていた私は『宇治アイスみつまめ』と雅なメニューを選択し、他の6人はスケジュール通りに『湯葉粥付き蕎麦天麩羅定食』に挑戦した。6人は無謀にもその定食を一片も残さず完食した。年の割には実に見事な食べっぷりである。

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 帰りがけに『清瀧宮』本殿周りの有名な2本の枝垂桜の大木を見て帰ることにした。
 残念ながら、この時期には一片の桜の花びらも残っていなかった。今年の花の最盛期には雨にたたられて、ここ醍醐寺も散々な花見であったそうである。足元の悪い観光客のために樹の周りには大量の茣蓙が泥にまみれになって敷き詰められていた。
 再び地下鉄に乗って、JR山科駅に向かった。その山科駅で奇蹟に遭遇した。我々6人が土産の『赤福』を購入するために京都駅に向かって、山科駅の階段を登って、京都行のホームにたどり着いた時、大津に帰ろうとして対向車両に乗っていた近畿地方で会うことのできなかった最後の1人の同級生が階段を駆け昇ってきて、突然我々の目の前に姿を現したのである。

27-1DSC_0151.JPG  一瞬、我々7人は彼が現れたことが信じられなく、しばらくはただ唖然と彼を見つめているだけで、言葉も出て来なかった。
 彼にも我々の京阪神の旅のスケジュールは郵送していたから、我々がその日に京都に滞在していることは周知のことではあった。
 彼からは「この期日は他用があって、会えない」由の連絡が入っていた。14日(火)には、彼は「午後1時より、『繁昌亭』の前で我々が到着するのを30分間だけ待っていた」そうである。ところが、広島組の我々6人は伊丹空港でもう一人の旧友に再会し、天神橋2丁目に到着しても繁昌亭に繰り込む前に腹ごしらえにとカレーライス屋に飛び込んだりして、午後の2時頃に『繁昌亭』に入場しているので、その場では、彼とはすれ違いになっている。
 それが偶然にもこうして彼と山科の駅で会えるとは奇跡としか思えない。それも反対車線に辿り着いた我々を対向車線の列車の中で見かけて、飛び下りて、急いで京都行のホームまで駆けつけたというのであるから、全く信じられない邂逅となった。おまけに京都行の電車が3分遅れていたがために、こうして彼と会えるという幸運に巡り合えたのである。このシーンを繰り返し、しつこく書くことになるが、それほど我々の上にこの瞬間神が宿ったのである。
 駅のホームでのわずか5分余りの再会を果たして、彼はなにを思ったのか、財布から1万円札抜き出して「これをガソリン代にでもしてくれ」と私の手に握らせた。
 「これは受け取るわけにはいかない」と強く拒んでも「いいからいいから」と受け取ろうとしない。他の6人はもう京都行の電車に乗り込んでいる。
私は会計担当者に1万円札をひらひらさせて提示し、「これ、彼からの餞別!」と叫んだ。「それは受け取れんじゃろう」と言いながらもにんまり笑って、彼の手は伸びて来ていた。
 あっという間に慈悲深い友の姿はホームの向こうに消えて行った。さぞかし、勢いで手渡した1万円札であっただろうが、「きっと後で、彼は後悔しているに違いない」と皆で話して頷き合った。
 私がどうしても『赤福』を土産に買って帰るというので、京都駅に一旦下りて、改めて大阪に向かうことに衆議一決した。なぜならば、お土産は最後の最後にしなければ途中ずうーと持って歩かねばならないし、私には常に総量7Kg余りのカメラ機材という負担がかかっている。そもそも『赤福』は日持ちがしないあんころ餅である。賞味期限がたった3日しかない。なるべく遅く購入する必要があった。
 幸い、鳥取市に帰る同級生が帰りは京都からバスに乗るというので、一旦2人して京都駅の改札口から外に出て『赤福』を売っている店を探索するという筋書きを練った。
 見事に『赤福』を買い当てて、意気揚々と5人が待っている改札口の中に引き返して、6人は一躍大阪に向かった。
 JR環状線に乗り換えて、ワゴン車を駐車している寺田町まで行き、一躍6人は広島に進路を執った。時刻は16日(木)の午後3時を回っていた。予定より1時間遅れである。
 運転手が2人で交互に運転して、ドライブインに寄って土産を漁りながら、仲良く『連れション』して友情を確認しながら、夕なずむ中国自動車道をブッ飛ばした。なにも苦労をして買い物をすることも無いもので、ドライブインでは『赤福』だろうが何だろうがたいていの土産物は売っている。それに『赤福!』とドライブインの入り口には大きな赤い暖簾が垂れ下がっている。
 東広島の高屋町と八本松に2人の旅人を送りつけて、広島市に滑り込んだのはとっぷり日の暮れた午後の8時を廻っていた。
 今回の1人頭の旅行費用は33500円也。内ガソリン代9800円。高速料金8160円。合計しても広島―大阪間の往復料金は1人頭3000円弱。今回は観光シーズン真っ盛りの交通渋滞を危ぶんで、大阪―奈良―京都間は殆ど公共交通機関を利用しているので、多少出費が嵩んだが、それでも格安の旅行が楽しめたと思います。それぞれがお土産を5000円前後買ってはいますが、これは別勘定と考えましょう。
 なにはともあれ、適当にハードな運動を強いられ、少しは疲れが残りましたが、高速道路を逆走することも無く、全員無事に我が家に帰還いたしました。
この度のプチ修学旅行では高校時代の5分の1もこなすことは出来ませんでした。しかし、春のこの時期にしてはまあまあのお天気にも恵まれ、予定のグルメのコースは全てクリアーし、何よりも関西在住の中学時のすべての同級生に巡り合えたことが何よりもの大ヒットでありました。
 この次の『第10回プチ修学旅行』は秋の京都に絞って、『紅葉狩り』と洒落込もうと目論んでいます。
 読者の皆様長い間のお付き合いありがとうございました。これで今回は終わります!

         ―――『プチ修学旅行』実行委員会編―――

原爆慰霊碑に参拝

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 平成26年10月27日(月)に奥本 博様(旧中39回)、田邉芳郎様(高7回)と東京在住で広島の原爆犠牲者の慰霊に永く関わり、ご自身の生徒たちにも原爆の悲惨さを熱く述べてこられた元教師の竹内良男様の3名の方が、本校の原爆慰霊碑参拝に来られ、犠牲者の御霊安かれと祈られました。また参拝後記念品室など校内も見学されました。

慰霊碑銘.JPG歴史に生きる.JPGのサムネイル画像


 

 10月26日(日)金輪島の原爆犠牲者慰霊碑での慰霊祭に参加され引き続き本校に来られたものです。
金輪島には戦時中、陸軍の衛生関係の部署があり市内で被爆した500人余りの人が送り込まれたところで、奥本様、田邉様のそれぞれの父君もそのうちの一人だったということです。
 その後、平成10年金輪島に原爆犠牲者慰霊碑が建立され、毎年その地で慰霊祭が行われております。この慰霊祭が御縁で御三方は関係を深め、このたび竹内様共々本校に来られました。蔵の前.JPG

 「修道学問所之蔵」の前にて  左から、田邉様、奥本様、竹内様  

                                                           

修道中学校卒業60周年記念写真撮影

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平成26年9月13日(土)高校9回生の皆さん14名が、修道中学校・修道高等学校グラウンドと教室で中学校卒業60周年の記念写真撮影を行いました。
それぞれが中学校卒業当時の自らの写真を手にし、にこやかに写真におさまりました。今の自分と60年前の自分を重ねるユニークな催しでした。
記念写真を見ながらこの後の懇親会では盛り上がったことでしょう。
また、母校においでください。

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文武両道の先輩に学ぶ(行うことが大切)

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2014(平成26)年3月5日
林 孝治(高2回)

(まえがき)
289年の歴史を刻む「修道」で「道」を「修」めた有為な方を紹介いたしましょう。

中国広東州出身の「呂 作霖」先輩 琢章会『修道』(校友会クラブ等の活動の広報雑誌)の記録と『修道蹴球のあゆみ』(昭和5年 山口遠征記)そして『修道学園会員名簿』により紹介しましょう。時代が変化しても変化しないもの、変えてはならないものがあります。
同窓生や後輩達の学びの参考にしましょう。

[呂 作霖氏]
呂先輩は昭和7年旧中23回卒業生(修道学園会員名簿による)であります。蹴球部(現在のサッカー班)に所属されゴールキーパーでした。当時の中学校は5年生で卒業でしたが、4年生の時に東京にありました第一高等学校(現在の東京大学)に進学されました。
琢章会発行『修道27号』に同級生の記事があります。


「関西学院主催の中学校蹴球大会戦記」  上田 幸彦(旧中22回卒)

第一戦は岡山師範との対戦でしたが対戦相手が棄権したため不戦勝でした。
第二戦が8月28日午後2時キックオフで和歌山師範との試合にGKとして出場されております。
LW田淵、LI音谷、CF中野、RI久保、RW中西、LH松本、CH森田、RH横田、LF福満、RF中山、GK呂、戦績は11対0で大勝でした。
第三戦は8月30日午後1時30分キックオフで、神戸二中との対戦にメンバーはCF中野に替わり横田、RH横田に替わり落合が出場しました。第二試合の勝因は立ち上がり早い時間帯の最初の一点にあり常に元気に試合運びのできたことにあるが、ホワードのパス回しも決して良くはなかったし、ハーフは後半には元気を欠いたが、天晴れてダークホース振りを発揮した。前半戦は敵の先蹴(キックオフ)で開始されるや否や、敵CF直木に好パスが回り我が軍(修道)の金門(ゴール)に迫るも、我が軍、その時よく防御した。その後も敵直木の再三にわたるショット(シュート)をGK呂よく、これを受け球(ボール)をRW中西に出した。その球、逆襲となり敵ゴール近く攻めCF横田LI音谷一緒にショットなし(シュートして)我が軍逆襲なり一点を得る。しかるに,敵は屈せず猛襲に猛襲を重ね、しばしば我が軍のゴールを攻め立てるも我が軍バックよく防ぎ、又も十分にしてCF横田ショットに一点を加ふ。なお敵は屈せず攻むれども我がバック防ぎ一点も許さず、二十八分にしてCF横田又一点を取り前半を終る。
後半戦は両軍よく攻むれども両軍のバック強く、度々のチャンスを逃し、一進一退に白熱戦を演ず。五分RW中西ショットせしもゴールの好守(GK)にはばまれたり、敵のゴール見事なるスライデングは敵ながら天晴なるものなり。
第四戦が準決勝戦となり8月31日午前11時キックオフで神戸一中との対に再びCFに横田に替わり中野が出場した。我が軍(修道)のキックオフで始まり、敵(神戸一中)猛然として攻撃す。RF落合の失策に敵のLWのヘデングに一点を先占さる。我が軍猛然として奮起し敵のゴールにしばしば襲い八分RW久保ショットせしもゴール(GK)の好守に入らず十四分また攻めシヨットせしが、かへって敵の逆襲になり、また一点を取らる。10分敵のRIの蹴りし球を福満ハンドなし、ペナルトキックを与え、計三点を許せり。我が軍ホワード奮起逆襲、猛襲を重ねしが得点とならず前半三対0に終る。
後半戦 我が軍猛然と突進に突進を重ね三分にして、ペナルトキックに一点を取返し意気大いに揚がり十分にショットせしも入らず度々敵を苦しめるも、敵もさるもの、その巧妙なるパスと逆襲に十二分一点、三十二分に一点を取り、我が軍の奮闘甲斐なく、我が軍を完全に乱して得点せり。その巧妙なる作戦は敵ながら感服の外はない。而して五対一のスコーアで敗る。


琢章会発行『修道第28号』による
「旧友 呂 作霖 君の第一高等学校入学を祝して」 四年三組 松井 章(旧中23回卒)

不屈不撓の勤勉と確固たる意志の表れとして目出度く第一高等学校(現在の東京大学)に入学されたる君
――― 呂 作霖君に衷心よりお慶びを致すものであります。
一高と言えば天下の誰しもの入学を欲する名校。此の度の受験者は此君と同国の人々とは言へ、実に百三十有余名、入学許可者の十倍にも近からんとする勢、斯の如く競争激しき中に入って、堂々彼等を圧倒し、その栄冠を握り得られたとは、実に敬服に耐えない所であります。
思えば我等と共に学び、共に運動せられたこと実に四ケ年―――この間、精神的に又肉体的に君の感化に依って好影響を受けたことの甚大なる者は独り、私のみではありますまい。毎年春秋二回の競技大会に我が蹴球部(現在のサッカー班)を統率し元気溌剌として敵軍を圧倒せられた君の勇壮な姿は、私達の永遠に消へ失せることの、出来ない最大の印象でありましょう。
君の如きよく日本を理解し、且好意を持つた者が、司政者となられることは、実に喜びに堪えない次第であると思うのであります。此処に些かに所感を述べて、君の入学のお祝ひ致すの辞に代へます。幸いに、健全にて、君の大望を成就致されん。ことを、お祈りいたします。


「留学所感及び旧友に感謝する辞」 呂 作霖

私は幼い時に私のなくなったやさしいお祖父さんが、度々彼の過去の経験した事を私に話しました。彼は言ふにのは「作霖よ―――お前は大きくなったら日本へ留学さしてやるぞ」と言ひました。前から留学することをあこがれてゐた私はお祖父さんの「留学さしてやるぞ」と一言に私の若い脳髄を刺戟したので、小学生時代テニスの選手をしながら一生懸命に勉強した。六年生の時に留学検定に合格した。併し其の時、自分は却って幾分か心配した。「日本人は外国の租借地に親切な風をしてゐるが其の内地に行けば軽蔑さりやしないか知ら?つまり若しさうだつたら直ぐに帰るぞ」と想像した。併し虚心者の私は、実地に踏んでから見れば自分の妄想は全然間違ひであったと知った。
昭和二年二月二十三日自分は従弟の士謙と一緒に、威風堂々として玄界の怒涛を突破して渡って来た。私は未だ始めは言葉さえ知らなかった。授業中に先生の講義は勿論、休憩時間に友の雑談は私は恰も盲人が案内者なしに孤旅する様に解らなかった。時々自分は涙が出る程苦しかった。幸に愛情の深き級友達は国際の事を考えずに「四海の内は皆兄弟なり」と言ふ句を実行したので誠心誠意に愚かな私を教えて呉れた私は夜になって寝床に入って後、じつと目を閉じ手を胸にあてて、しみじみと日本の恩恵を感じた。
実際―故郷に於いては日本の善政を受け、留学生たる自分の身に於いては、莫大なる教育を賜はり私は何と幸運児であろう。今度私は、一高(現在の東京大学)の入学の目的を達したのは級友の力だ。級友のお蔭だ級友よ、そもそも過去四星霜を顧るに、実に鳥兎匆々たる日月でありしを痛感する。諸君と運動の時にはグランド、勉学の時には教室、談笑の時にはプラタナスの蔭の下、互に面白く且楽しく吾等の無邪気な生活を過した私は、何時までも此の楽しい生活を味ひたい。諸君と別れるのは無上の悲しい事だ。併し一方に「生者必滅曾者常離」の宗教的の言葉を思ひ出した。
どうせ吾々は、此の言葉をはなれて他の軌道を歩むことが出来ないのだ。又私は送り迎へて年々に、主張は長し我が校是の神聖なる校歌を歌ふ時、幾分か私の悲しみを愉快的行面へ導いてくれた。嗚呼―級友よ、人に対する送る辞の純情にて私は感涙を催しましたよ。吾々の別れは単に肉体的の別れだ。吾々の精神は矢張り一緒に居るんのだ。
願くば諸君、己れの将来を処する提灯を得、大方針、大理想を画き邦家救済を一身に荷ふ大勇猛心を振り越し、修養を怠らず、個人の為め、母校の為め、国家の為め、尚進んで東洋の為め互いに努力して東洋の文化を進めることに蹶起しようぢゃないか?
最後に諸君の健康を祈る。


(あとがき)
呂先輩は、故郷から離れ、気候・風土・文化・言葉・文字等々のなにかにつけ不自由な異国に留学されました。特に母国語以外の言葉や習慣を身につけなければ毎日の生活ができません。あらゆるハンデを克服され、毎日の授業にも精通され、部活のサッカーにもゴールキーパーとして特殊の技を身につけられました。しかも普通の生徒でも困難な東京大学に4年生で合格されました。文武両道を実現された鏡のような先輩ではないでしょうか。

時代の変化に伴い、現在は日本人も留学が拡大され、海外企業で働く人、海外の支店や工場で働いている人が多くなっております。今後もグローバリゼーションが進んでおります。新しい時代に適合する必要な人材を社会が求める時代に変わりつつあります。2か国以上の言葉・文化・習慣が要求される時代になっていると思われます。
過去の歴史を学び、新しい知識を加えて、将来を見通して生き抜こうではありませんか。ひたすら精進・努力する姿は美しい。自分を磨き、世の中に必要とされる人物でありたい。
繰り返しになりますが、生涯学習として、すべての人(倫理)と物(物理)から学ぶこと。そしてすべての生命を尊重し、すべての人と物に感謝して生きようではありませんか。

文武両道1.JPG

     後 列  森田・落合・音谷・福満・呂・中山・花本・古武
     中 列  塚部・水野・辰野(先輩)・秋山(先生)・渡辺(先輩)・榎並・平野・飯田        
     前 列  松本・久保・景山・高橋・田淵・中西・大倉

文武両道2.JPG      上: 呂
      下: 秋山元英先生

8月6日の修2会の集まり

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修道で出会うて70年
― 中二の逝友と69年 ―

高校2回 永谷道孝

DSCN4630.JPG毎年8月6日、高校2回卒は母校に参集して、旧正門横にある慰霊碑に参拝し、逝友の名前を指でなぞりながら追憶冥福を祈る。そして戦争と平和を問う。

1944年(昭和19年)、修道中学入学、ようやく中学生活に馴れ、生涯の友も得た2年生の頃から、学徒動員令により、上級生は順次、兵器工場に出動し、学校にはわれわれ2年生と1年生だけになった。
8月6日、市役所東側、旧雑魚場町での建物疎開作業中、一発の原爆により、阿鼻叫喚、火の中を逃げまわり、同級生の大半136名は無惨にも焼き殺された。学校は校舎倒壊、修道は消えた。
あの日から69年、われわれは、死を見つめ、命を思い、生き残った後ろめたさの深い思いを胸に「激動の昭和」を生きた。

2014年(平成26年)、修道で出会って70年、齢83才の今、不思議なことに、時所を問わず、突然に当時の中学時代の童顔と1年4ヶ月の思い出が鮮明に脳裡に浮かぶことが多い。恋もせず、結婚も出来ず、子供も育てず、そして孫も抱けずにわずか13才青春の入口で早く逝った君たちと苦難の人生を共に生きたかった。噫々無情悲哀なる哉。

君に会おうと修道にいったのではない。修道にいったら素晴らしい君に会えた。終生敬愛する恩師、先輩、後輩にも会えた。人生、出会いの不思議さ、面白さ、ありがたさを噛みしめながら「修道のご縁」を心から深かく味合う。
ありがとう修道、感謝 感謝。

参照 中吉啓治氏(旧中33回卒)に聴く戦後修道復興の礎
修道学園史研究会 畠 眞實氏(高校7回)編


8月6日の修2会の集まり

高校2回 西田頼信

修2会(昭和20年に旧制中学2年・修道高校2回卒)は、毎年8月6日(9時~11時)に原爆慰霊碑の裏に刻まれた同級生136名の名前を手でなぞりながら、悔しさと懐かしさをこめて互いの近況などを語り合い、事務局からの好意のお茶とお菓子をいただきながら喪に服しています。
DSCN4623.JPGDSCN4620.JPG

今年は、遠方からは姫路から高祖君、岡山から細川君、山口から折出君の3氏がみえた。

DSCN4627.JPG(写真)
福田、西田、永谷、下村、折出、大石
林、遠山、細川、阿部、高祖

第14回全国シニア(60歳以上)サッカー大会、シニア(70歳上)サッカーフェスティバルに参加して

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平成26年6月25日
林 孝治 (2回)  
                          

大会期間 2014年5月31日(土)より6月2(月)まで
会  場  藤枝総合運動公園サッカー場
      同上      陸上競技場
      藤枝市民グランド
      中外製薬工業(株)工場グランド
主  催  日本サッカー協会
主  管  静岡県サッカー協会
後  援  藤枝市教育委員会・静岡市体育協会
参加チーム 60歳以上 14チ-ム
      70歳以上 14チーム
修道参加者 60歳以上  広島県選抜   高下一夫(23回)
      70歳以上  広島県選抜   林 孝治(2回)  高瀬正則(9回) 大内 晟(11回)
            東京都ロイヤル 竹内民雄(10回) 藤田 勉(13回)
                                        計6名
戦  績  60歳以上 広島県選抜
            1-1 SUPER GOAL3, 0-1 信州, 1―1 兵庫県 
                                         Dグル-プ3位
      70歳以上 広島県選抜
            1-0 徳島, 0-1 東京, 1-0 北信越         Dグル-プ2位
             
           東京都ロイヤル
            5-0 北信越, 1-0 広島, 5-0 徳島         Dグループ1位

大内さん・林さん・高瀬さん.JPG竹内さん.JPG藤田さん.JPG高下さん.JPG

写真は左から(敬称 略)
大内(11回)・林(2回)・高瀬(9回)・竹内(10回)・藤田(14回)・高下(23回)

勝者と敗者
 スポーツには娯楽性と競争性があります。大会となると競争性が優先します。 
その中で同じ学校であったり、または同級生で同じチームであった選手が今では広島と東京に分かれて勝敗を争うことになります。
 昨年も広島は東京と対戦しまして、戦績は引き分けましたが、今年は敗者となりました。それでも試合の前後には、お互いが広島弁で親しく話し合いを致します。何十年経過しても変わらない絆が年一回の
本大会を機会に深められていきます。同窓生の皆様、全国各地より本大会に参加して下さい。
先述は同じ同窓生の勝敗ですが、次は全国優勝を争った勝敗です。

 戦後間もない昭和24年国民体育大会が東京で開催され全国優勝を目途に参加しました。
戦後、広島の黄金時代に「関東の浦和に勝たないと全国優勝はできない」と先輩に指導されておりました。準決勝戦で浦和ではなく栃木県の宇都宮との対戦に1-2で敗れました。慙愧に堪えません。
何十年経過しても忘れることはありません。
 ところが昨年、平成25年のねんりんピック高知大会で、関東代表栃木と対戦することになりました。その中に当時の宇都宮高校の選手と対面することになり「東京の国体で広島の修道高校に勝ちました」と
言われ、こちらが敗者、修道の当時のメンバーであることには気づかず話が続き、涙が出て止まらなくなり言葉もでませんでした。

 その後、大阪 堺で静岡県藤枝東高校出身の選手と同じチームになりました。終了後「国体で広島の修道高校に優勝戦で負けました」と聞かされました。宇都宮高校の敗者の気持ちが惹起してきて、その場所で相手の気持ちを思うと、自分が修道OBとも、その試合のメンバーが参加しておることも宇都宮高校の反対の立場の気持ちが痛いほど分かりますので何も言い出せませんでした。
 今回のシニア大会が藤枝で開催され、重ねて、お逢いすることになり、再度その昔話が出てきて、敗者の気持ちを、事前にお話して、了解の上、修道OBや優勝時のメンバーを紹介致しました。
これからも、同じチームで仲良くゲームをすることになります。
 全国優勝の勝者と敗者の気持ちはスポ-ツの競争性のためには避けられないもので、ただ今では娯楽性だけを表面に出して、笑顔で笑い流して、心の内では悔しさを我慢するしかありません。

藤枝サッカーのルーツ
 広島と同じように東京高等師範学校(元東京教育大学・現筑波大学)の先生が藤枝に赴任されたのが旧制の藤枝中学校でした。
当時は静岡県の志田平野で野球をしていたが蹴球に変わりました。静岡県志田郡で天皇杯にOBが「志田クラブ」の名称で参加しておりました。旧制の中学校は藤枝高校になり、その後、藤枝東高校に名称変更されました。

以上

修道中学6組会『第7回プチ修学旅行』を終えて

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―――『大浮世絵展』を鑑賞する山口市への旅―――

プチ修学旅行実行委員会

 このようなインターネット通信が広く、且つ、多く修道の同窓生の皆様に読まれているとは夢にも思っておりません。多くの同窓生の皆様は年齢的に判断しても、まだまだパソコンには馴染みの無い方々が大半であると推測いたしております。年2回の同窓会通信の冊子の発行では、既に発行された時点で、記事の内容が陳腐化していることは明らかでありました。その点インターネット通信は現代の通信手段としては即時性があります。
 同窓会ではこのような時代の流れを先取りして、早々にインターネット通信に切り替えて来られました。そのため、冊子での通信は年1回に削減されました。こうした流れは極自然の流れだったと思っております。かといって、冊子による通信を軽んじているわけでは決してありません。これはこれで必要不可欠な通信手段であると心底思っております。いかんせん、同窓会にインターネット通信が取り入れられて、わずか3年弱しか経っておりません。いまだに、インターネット通信は充分に活用されていないのが現状ではないかと推察いたしております。
 インターネット上に多くの記事が寄せられるようになれば、私の記事のような雑文は自然に消滅していくことでありましょう。そのような時が訪れることを心待ちにいたしながら雑文の作成に励んでおります。

DSC_0003.JPG さて、それではその雑文の世界に入らせて頂きます。
 2014年5月に3泊4日の北九州一周の旅を終えたばかりである。広島県立美術館でボランティア活動をしている中学時代の同級生が「あののー、5月の16日から7月13日まで山口県立美術館で『大浮世絵展』ゆうのがあるんじゃが、これから後、二度と見られん位の傑作を世界中から集めておるというんじゃ」と言ってその浮世絵展のチラシを持って私の前に現れた。私も浮世絵は決して嫌いではない。むしろ絵の展覧会といえば修学旅行のテーマとしては最もふさわしく、正しい選択である。直ぐに乗り気になった。友は更に調子に乗った。「この展覧会は日本では東京の『江戸東京博物館』と『名古屋市博物館』と『山口県立美術館』の3か所しかやらんのじゃ」と付け加えた。
 早速、8人乗り『アルファード』の所有者である同級生に相談するとその話に飛びついた。

 さて、この展覧会をインターネットで調べてみると、海外からは『ギメ東洋美術館』、『ベルリン国立アジア美術館』、『ホノルル美術館』、『大英博物館』の里帰り作品が潤沢に出品されている上に、日本からは『東京国立博物館』、『平木浮世絵財団』、『江戸東京博物館』、『千葉美術館』、『奈良県立美術館』、『日本浮世絵博物館』、『出光美術館』、『相撲博物館』、『神奈川県立歴史博物館』、『三井記念美術館』、『名古屋市博物館』、『根津美術館』、『メ~テレ(名古屋テレビ放送)』、『山口県立萩美術館』等から選び抜かれて出品されている上に、多くの個人蔵の逸品を加えて総展示作品数は439点という豪華絢爛な内容。
 浮世絵作者やその作品群はと言うと国宝、重要文化財、重要美術品のオンパレード。
岩佐又兵衛、菱川師宣を始め、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿の『当世三美人』や『高嶌おひさ』、『難波屋おきた』等、東洲斎写楽の歌舞伎役者の『大首絵』、渓斎英泉の『浮世風俗美女競』、葛飾北斎の『富獄三十六景』の『凱風快晴』、『神奈川沖浪裏』、『山下白雨』等、歌川広重の『東海道五十三次』、歌川国芳の『水滸伝』や『里見八犬伝』の武者絵から『としよりのよふな若い人だ』と続き、明治大正期の月岡芳年の『田舎源氏』、河鍋暁斎、橋口五葉の『浴後の女』、伊東深水の『眉墨』、川瀬巴水の『平泉金色堂』等で絞めてあるという内容。
 これは見逃すわけにはいかないとすぐさま準備に取り掛かった。
 北九州の旅に参加した修学旅行生を優先して、直ぐに4人は決定した。つまり、元中電の常務、元丸紅の社員、元内装業社長と現役のカメラ屋の私の4人である。前回参加した2人が今回はリタイアしたので、2人追加することにして、厳しい適格者審査に移った。
 提案者の中電の常務が「防府に寄るんなら、元防府マツダの工場長は欠かせんじゃろう」ということで、元工場長をお誘いすると「以前、お断りしたことがあるけえ、今回は参加させてもらおうか」ということで、早くも一人決定。あともう一人は静かな元大学教授にしようか?それとも賑やかな元出光の名古屋支店副支店長にしようか?と迷ったが、定年退職してから水彩画を始めた元出光の名『画伯』をお誘いしてみることにした。「日程さえ許すなら、参加してみようか」というご返事なので、6人の日程を調整して決行の日を2014年6月24日(火)に決定した。
 広島県立美術館のボランティア要員は早速、『大浮世絵展』のポスターを持って来て、これを店頭に張ってくれたら2人分タダになると告げた。全員タダが大好きであるから、この話には直ぐに乗った。車の持ち主はすぐさま山口市の観光雑誌を購入してきて、グルメの探求にいそしんだ。遊ぶことに懸けては全員行動が実に速やかである。その結果、昼飯は山口市でB級グルメの『ばりそば』。夕方の宴会の部は帰路防府によって『鱧(はも)料理』と大筋は決定した。

 朝8時30分に広島駅前を出発して、廿日市のJR阿品駅で元出光の社員を拾って、大野から山陽自動車道に乗った。午前11時に山口県立美術館横の広大な無料駐車場に到着した。その周りはいろんな施設が密集しているので、いかに広大な駐車場と言えども、既に満車であった。駐車場内を暫く徘徊して、漸く空きスペースを見つけて駐車した。そこから歩いて美術館に着いたのが午前11時20分。平日の火曜日というのに入り口には20人位の列ができている。なんと爺、婆の大安売りである。特に婆が長生きするので、圧倒的な大多数を占める。「平日から日本人がこのように遊んで暮らしていてはこの先日本の経済は到底保たない」と嘆かわしく感じて、ふと私の周りを眺めると何をか言わんや私達も揃いもそろって72歳の爺である。直ぐに「まあ、いいか!ここでは細かいことは詮索すまい」と言う平和な気持ちになる。爺、婆の人波が押し寄せていて、なかなか先に進めない上に、近寄って浮世絵を観賞することができない。この状態では我々もそれぞれが薀蓄を披露しながら、一緒に鑑賞するどころではない。ロビーで12時30分に落ち合うことにして、分裂行進に移った。幸い日本人の婆は背が低いので、婆の背中越しに蝶のように、移ろい、舞いながら鑑賞することにした。
 浮世絵の展覧会は退色を防ぐために長期間の展示を避けると同時に、照明が極端に暗いのである。とは言え、こうして本物を目にすることが大切なのである。後は図書館で画集を借りてきて、解説を読みながらゆっくりと鑑賞したり、ほろ酔い加減で寝そべってテレビの絵画番組を見たりすればよいのである。
 12時30分に全員がロビーに揃った。グルメ党党首が用意してきた地図を開いて、先頭に立って案内を始めた。どこまでも緑の多い駐車場を横DSC_0007.JPGDSC_0013.JPGに見ながら、小さな橋を渡った交差点の角に目的とする創業五十余年『元祖ばりそば本陣春来軒』があった。一切の無駄もなくエスコートしてくれるのであるから、ついて行く方は楽チンである。木漏れ陽の中をそぞろ歩くのも気の合う同級生同志、これほど愉しい散策は他に類を見ない。『創業五十余年』と言うのが曖昧で、少し怪しいがそれがB級グルメの真骨頂である。昼時ということもあり、22席くらいある店内は満員で、6人全員の席は取れないということで、隣の控室で待たされる羽目になった。暫くして、「3人掛けなら2テーブル取れます」という『ばりそば屋』のおばちゃんの誘導で席について、早速、ビールとノンアルコールで乾杯した。『ばりそば』は超硬メン、硬メン、普通メン、やわらかメンの4種類がある。おばちゃんが「どれにしますか?」と聞くので、一斉に「超硬メン!」と大合唱。
 『ばりそば』とはパリパリに油で揚げた中華めんの上に、烏賊ゲソ、えのき茸、蒲鉾、白菜、もやし、ネギを混ぜた具に片栗粉でとろみをつけて、ちょいと酸味を加えた八宝菜風に調理した出汁をたっぷり垂らしたものと理解してもらえればよい。けだし、老人の胃には優しい料理である。惜しむらくは、豚の脂身のこま切れが目に飛び込んで来るくらいのサービスはして欲しい。
DSC_0016.JPG 胃の腑が落ち着いたところで、瑠璃光寺の五重塔を見学に行くことにした。歩いて行ける距離かどうか?ばりそば屋のおばさんに聞くと「そんなに遠くはないですよ」と言ういい加減な返事である。観光案内地図で見ると老人が歩いて行く距離としてはかなり手強い。駐車場内に停めてある車を探して、歩くことにしたが、それぞれが勝手な方向に進路を執る。垣根を越し、石垣を上り、車の駐車してある場所に辿り着くと、それまでそれぞれが自分勝手な方向に分散して歩いていた同乗者が、不思議なことにほとんど同時に車の停めてある場所に辿り着くという芸当を見せるのである。瑠璃光寺に車を走らせる途中、一天俄かに掻き曇り、梅雨独特の驟雨が襲いかかってきた。「車で移動していてよかったのー」と一同胸を撫で下ろす。瑠璃光寺の駐車場に到着しても一向に雨は止みそうにない。20分位車中に閉じ込められる羽目になったが、この連中、ちっとも気にする様子は無い。雲の流れを睨みつけながら、楽しい雑談に耽っていた。
 暫くしたら、雨は霧雨に変わり、やがて上がった。雨に濡れた、人影の絶えた新緑の中を国宝『瑠璃光寺五重塔』に近づいて行った。この五重塔は室町時代の大内氏によって建立された日本三国宝のひとつで1442年に完成されたものである。雨上がりの新緑に浮かんだ五重塔は一層の光彩を放って実に見事な眺めと化していた。
 DSC_0027.JPG隣接する『保寧山瑠璃光寺』にお参りした。一行童心に帰って、無心にお祈りをした後、今を盛りと咲き乱れるアジサイの華の美しい門前の『香山公園』を散策して、車を温泉郷『湯田の町』へ向けた。カーナビで探して着いた所は『天然温泉清水湯』であった。それぞれが手持ちのタオルを握って、男湯の暖簾を潜った。入浴料お一人様390円であり、当然シニア割引は無い。温泉に浸かって旅の疲れを癒すと俄然活力が湧いてきた。
いざ、進路を鱧の待っている防府に向け出発進行である。

 と言っても、防府についた時刻というと、未だ太陽が中天に燦然と輝く昼の真っ盛りである。とてもじゃないが宴会の部に突入するには早過ぎる。
DSC_0031.JPG「防府と言えば、『防府天満宮』じゃろう」ということに衆議一決して、車を天満宮に向けた。平日ということもあり、別に受験時期でもないので、学問の神様も暇を持て余しているらしく、辺りは閑散としたものである。『防府天満宮』は流石にと言うか、辺りに鳴り響いた有名神社である。きらびやかで美しい。これで可愛い巫女さんでもチョイと出て来て、「あら、まあー、そこのお兄さん方、一緒にお茶でもしませんか?」と言う塩梅になれば、はるばる訪ねてきた甲斐があろうというものを・・・。キツネの一匹も現れやしない。浮いた話の一つもなく、ただひたすらに、今日もおいしいお酒が呑めるように、おいしい食事ができますようにと一心不乱にお祈りしている同級生の姿は端から見ていてもほほ笑ましい。長い石段の下の広場ではお土産屋の幼児が4人でボール遊びに興じている。成す術もなく、かといって、宴会の部には早過ぎるしDSC_0048.JPGということで、観光案内の地図を覗き込んでいたメンバーの一人が「東大寺別院『周防阿弥陀寺』別名『あじさい寺』にでも行ってみるか?」とつぶやいた。誰一人として反対する理由は無い。
 「『あじさい寺』は鎌倉時代の1187年に建立された古いお寺で、境内には現在80種類、4000株のあじさいが咲き乱れている。6月の旬の季節には華やかな極楽浄土に誘い入れてくれます」と謳っているが、要らぬお世話である。まだまだ末永く愉しいプチ修学旅行を企画して行かねばならないのに、極楽浄土なんかに誘い込まれてはたまるものか。それにしてもここはあじさいの坂道が延々と続く、かなりハードなトレッキング・コースである。
 最初、元丸紅さんがお山に迷い込んで這い出して来たかと思いきや、今度は出光さんが行方不明。こんな時の携帯電話と呼び出しをかけても、帰ってくるのは虚しいコール音だけ。結局、先に下山して、入口の石段に腰を下ろして、彼はひたすら我々を待っていたというお粗末の一件。「おおい、携帯が鳴ったじゃろう?」と問いかけると、平気な顔をして「携帯は車の中よ!」と言う返事。「それじゃ、駄目じゃん!」と一同苦笑して、会話は終了。料金所(入山料一人200円)の横の小川の岸には今を盛りと『あじさい祭り』と『鱧料理』の宣伝用の幟旗がはためいている。
 鱧料理と言えば京都の夏の風物詩である。しかし京都の鱧は我々庶民の口に入るお値段ではない。しこうして、安く鱧を食すのは山口県周防に限るのである。ただし、周防では舞子を揚げて派手に遊ぶわけにはいかない。漸く待ちに待った宴会時間が到来。「鱧が我々を待っている!」と街中へと車を走らせた。

 防府には『鱧料理店』が全部で10軒あるとインターネットで調べてある。「一番目、二番目の格式の高級料理店は我々のお口に合わない。一番ラストのランクでは我々のプライドが許さない。せめて最後から2番目か、3番目の格式の店に狙いを定めること」と全隊員によおく言い含めて探索に入った。元マツダの防府工場長は「確か、一人1万円は下らなかったと思う」と接待したにしろ、接待を受けたにしろ、経費で食した経験しかなさそうなので、我々の財布の中身ではお話にならない感じ。
 結局、防府駅の観光案内所に斥候を走らすことにした。こういう仕事はプチ修学旅行の会計係で元中電の常務の持ち分である。元中電の常務を『使い走り』に使うくらいにこの会は格式が高いのである。防府駅の近くの最初の店の駐車場に車を横付けしたものの、その店は高級割烹料理屋風でお値段的にお口に合いそうにない。案の定、使い走りが「今日のところ、予約以外に6人分の鱧は賄い切れない」と断られて帰ってきた。「こっちこそ、願い下げである!」と明るく我々のお財布が納得。
 DSC_0072.JPG2番目に探し当てた店は『割烹いちはな』という我々が目標としていた店に近似のたたずまい。早速使い走りを交渉にやると、敵は大歓迎のご様子。満を持してこの割烹店に繰り込んだ。初め座敷に案内されたが、我々はいささか老人の態である。お女中が「ちょっと、狭いですが?」とことわっておいてテーブル席に案内してくれた。「これでいいのだ!」。平日のまだちょっと明るいうち。客は我々一組だけ。おまけに割烹料亭も夏の閑散期ということで、鱧料理のフルコースが半額セール期間だという。「これはさんざ神社で賽銭を投入して祈祷した霊験がここで現れた」と諸人こぞりて欣喜雀躍。これで誰に遠慮することもなく、金銭の心配もすることなく鱧料理が賞味できる。DSC_0053.JPG
 やがて、割烹料亭を貸し切っての大宴会が始まった。まずは、恒例によって、ビールとノンアルコールで乾杯。店は暇なもんであるから、サービスは抜群、愛想は良いし、すぐさま鱧の『湯吹き』が眼前に現れた。梅味に赤味噌味に白味噌味と三種類にレモンが添えてある。いずれも薄味で鱧の素の味を殺さず我々の上品な舌を考慮した味加減である。ここで、調子に乗って、地酒を所望することにした。調理場のカウンターの上には今を盛りと名の知れた銘酒(株)旭酒造の『獺祭(だっさい)』が辺りを睥睨して大中小と三本鎮座している。「あの小で一本いくらですか?」と上品に問いかけた。「はい、一本3000円です」と言う返事。「ううん、その値段はチョット我々のお口に合わないかも」と断念した。その代り、鱧に実によく合うという地酒『郷秀』という一本1500円の逸品を注文した。
 次に出てきたのが鱧のシャブシャブ。奉書紙に出汁を満たし、固形燃料の小型コンロで温め、鱧の切り身を軽く出汁にくぐらしてお口に運ぶという趣向である。骨切りが充分にしてあるのでお口の中でとろける感触が堪らない。
 3番目に出てきたのが鱧の天麩羅。お女中が「空揚げにいたしましょうか?それとも、天麩羅にいたしましょうか?」と問うと、一同「てんぷら!」と大合唱。実によく気が合うのである。調理場の横の水槽には見事な鱧と石鯛が食べられるとも知らないでゆったりと泳いでいる。
 4番目に出てきたのは鱧寿司であった。鱧の照り焼きにたっぷりと上品なウナギのたれがかかっていて、これまた寿司屋ではついぞお目にかかれない逸品である。なんだか随分と贅沢な気分に浸ったところで、愈々、締めにと入ります。
 締めはやっぱりフルーツとケーキである。6人はすべてを完食した。飲んで食って、一人前2780円の支払いとは格安である。なにしろ、夏のサービス期間ということで、鱧のフルコースが半額の1980円と言うのが利いている。
 DSC_0056.JPGDSC_0061.JPGDSC_0068.JPG 

大満足し夕なずむ高速道路をひた走って、広島に向かった。途中、下松のドライブインに寄って、会計さんが本日の総経費を算出した。高速料金が身体障害者割引の半額で2000円。ガソリン代が5100円。旅の記録記念写真代500円を加えてもお一人様総経費7000円也。あとはそれぞれが下松のドライブインで奥様のお口汚しを買い求めるだけであった。

修道中学6組会『第6回プチ修学旅行』を終えて その1

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―58年前の北九州周遊の旅―

修学旅行実行委員会

 58年前になりますが、私達修道中学3年生は昭和31年(1956年)5月26日から30日まで、4泊5日の北九州一周の修学旅行に行きました。

01DSC_0009.jpg どうした風の吹き回しか知りませんが、広島女学院の生徒と同じ列車に分乗しての楽しい旅でありました。何故、広島女学院が同伴者に選ばれたかはいまだに謎であります。恐らく、一列車を借り切るのに修道だけでは満杯にならないという理由で女学院に白羽の矢が当たったのではなかろうか?と言うのが当時のもっぱらの噂でありました。丁度性に目覚めるお年頃の宝亀15歳の修道健男児にとって、それは余りと言えば余りにも刺激が強うございました。何かと後々、生徒の間で不都合な事態が出来した結果かどうかは計り知れませんが、この一回きりで、女学院とのランデブーは廃止になりました。なにはともあれ、私達修道中学生は千載一隅のチャンスに運よく巡り会えたのでありました。このことにより、その後の修道及び女学院の生徒の身の上にいかに波乱万丈の人生が待ち受けていようと、これ一重に、学校の責任ではなく、個々人の人生に立ち向かっていく姿勢の問題であることをここに宣言いたしておきます。
  ちなみに、たまたま、運悪くこの旅行記をお読みになる諸兄のために、参考として58年前の『旅行日程』と『旅行費用計算書』を提示しておきます。今回の旅行と比較してみるのも一興と思いますので、繰り返しご参照ください。
 さて、今回の旅はその58年前のコースを再び辿ってみようと思い立ったのが事の始まりでありました。同じ場所を、同じ季節に辿る思い出探しの旅であります。
 今回でプチ修学旅行も6回目を迎えます。これまで5回のプチ修学旅行は無事に、且つ、楽しく催行することができました。こうした成功事例に後02DSC_0020.jpg押しされて、今回の3泊4日の旅を敢行することになりました。
 プチ修学旅行の3回目から踏襲されてきたメンバーの中の一障害者が所有するトヨタのハイブリット車『アルファード』8人乗りワゴン車に最高催行募集人員6人を厳選して履行することになりました。この度も慎重を期しまして、実行の3か月前の2月10日にメンバーのピックアップに着手することにいたしました。条件として、二足歩行が可能な者、徘徊の習癖が無き者、体に良くない物をたらふく食べられ、鯨飲が可能な者。役に立つor立たないは一切問わないが、体の中心に男性のシンボルの痕跡をぶら下げている者。つまり、この度は女学校の卒業生はこれに該当しないこととすることを謳った。
 まず、修学旅行で大活躍した大津の住人を誘ったが、案の定、今回は棄権するとのたまう返事が来た。前々回、前回と2度も参加してくれた元鳥取大学教授がわざわざ鳥取から列車を乗り継いで、広島市に一泊して参加するということで、6人のメンバーはあっけないくらい瞬時に決まった。
 寝泊まりして、昼はグルメ、夜は宴会。観光地、美術館、博物館を思うさま巡って、1日1万円という計算はいささかきついと判断して、3泊4日で5万円と言う予算をはじき出した。
 今回の旅のひと月前に車の持ち主が詳細な日程表を作成してくれたので、確認の意味を込めて、今回の旅の参加者それぞれに通達するとともに、久留米在住で『久留米総合病院』勤務の同期生に「博多で会えないか?」というコンタクトを執った。なぜ、72歳03DSC_0013.jpgにもなって、現役で働いているか?というと、彼は麻酔科の医者であり、麻酔科は医者が少ないという理由で嘱望されて、いまだ現役で働いているということであった。
 「月曜、火曜は、麻酔科は忙しいが、代わりを頼んで夜の部は抜け出せるので、是非会おう。それで、宴会はどこを予約している?」と問うので「博多名物『もつ鍋』を食べる積りでいる」と答えると「この季節にもつ鍋はない。ホルモン料理は冬のもんだ。予約しておらんのなら、わしが日本料理の店を予約しておく」と強引に決めてしまった。
 次に、長崎の夜は同じく同期生が耳鼻科を開業しているというので、これにもコンタクトを執ってみた。これは残念ながら、5月14日の夜は学会で博多に行くということなので、正にすれ違いとなる。ということで、残念ながら会うのは諦めることにした。

修道中学6組会『第6回プチ修学旅行』を終えて その2

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 ―58年前の北九州周遊の旅―

プチ修学旅行実行委員会

 迷子になった時のお守りとして、参加者全員の携帯番号を用紙に明記して、それぞれに手渡し、さわやかな初夏の風が吹く2014年5月13日(火)午前8時に広島駅前をスタートした
 同年代でありながら、それぞれが異なる経歴を有しながら、今や悠々自適の身分で、お互いに利害関係の無い者同志、これほど気楽な会話が楽しめる仲間は他に類を見ない。クーラーボックスに用意された冷えたビールとチューハイを飲みながら、乾き物を摘まみにしゃべりまくるというブレーンストーミング。それぞれがその道を極めたオーソリティである。元大学教授、薬剤師、商社マン、電力会社の重役、自営業者というメンバーであるから話の種が尽きることが無い。これが世にいう『実学』というものである。
 高速道路を転がして、あっという間に、関門大橋の展望台に到着した。まずは一回目のトイレ休憩である。車の持ち主が『障碍者手帳』を所持しているので、高速料金はすべて半額。快適でない筈がない。04DSC_0005.jpg関門大橋を渡って、愈々九州に突入する。
 博多に着いたのは昼の12時過ぎ。博多一番の繁華街『天神』に車で乗りこんでラーメン屋を探す。近頃とみに名を馳せている『一風堂』の看板を見つけて、この店に狙いを定める。近辺に駐車場を見つけて、看板を頼りに『一風堂』を探す。さすが九州一の繁華街である。街行く女性は若く、スタイルがよく、ファッショナブルである。なぜか博多の若い女性はノート大のタブレットを手に掲げて、それを操作しながら、蝶のように人波を縫って行く。可愛い女性を選んで、『一風堂』の所在を聴く。ラ―メンは豚骨風味で細麺である。「麺はやわらか目ですか、固めですか?」と聞かれると、即座に全員「固め!」と答える。多少腹にもたれるが汁まで啜る。05DSC_0012.jpg
 満腹すると、『大濠公園』内にある『福岡市美術館』に向かう。ミロ、シャガール、黒田清輝、青木繁、坂本繁三、三岸好太郎等を所蔵しているという触れ込みであったので期待をしていたが、建物は古く、地味な感じで、期待外れであった。「名にし負う作品も、器によってその値打ちがいかに左右されるか」ということを身を持って感じた。そのなかで、もうけものは中川一政のパリの街角を描いた作品を1点目にすることができたことであった。
館を後にして、湖のように大きな『大濠公園』の畔に立ち止まって、木陰で初夏の風に吹かれながら、遥か遠いビル群を眺めて一歩も動かず。
 
 まだ夕方の宴会の部まで時間がたっぷりあるからということで、58年前に訪れた『大宰府』方面に足を伸ばすことにした。大宰府にある『九州国立博物館』が2005年10月16日に建造されているということなので、この博物館に行くことに決定した。国立博物館は東京、京都、奈良、博多と全国に4館しか存在しない稀有な博物館なのである。『九州国立博物館』は近代的な、雄大なガラス張りの、モダンな建築物で、そのスケールにはまず度肝を抜かれる。常設展示物見学は70歳以上がタダということなので、免許書の提示を要求された。この博物館は他の美術06DSC_0019.jpg系3館と相違して歴史系展示物が主である。九州を中心とした重要文化財が目白押しで、とても短時間で鑑賞できる内容ではない。持ち時間を急30分延長したが、それでも後ろ髪を引かれる思いで館を後にした。
 車で博多市内に引き返す途中で、くだんの久留米の医者から携帯が入った。
「いま、どこにおるんや? わしは今博多の駅に着いたところなんじゃが!」と伝えてきた。「わかった。今、博多に向っとる。ホテルで待っとってくれ」と言ったのはいいが、不案内で、なかなか高速に乗れない。一般道を走って、予定より随分遅れて、医者を30分待たせてしまった。
 慌てて、ホテルからタクシーで天神にある料亭『稚加榮』(ちかえい)に向かった。タクシーの運転手さんに「『稚加榮』って、どんな料亭ですか?」と聞くと、「高級料亭で、とても私なんか行けるところでありません!」と言うので、乗り合わせている者は全員ビビッてしまった。タクシーが『稚加榮』に到着するといかにも格式が高そうな料亭である。法被を着た男衆が3人ばかりすかさず走り出て来て、案内をする。もう、こうなれば当初の予算の4000円とか5000円は言っておれない。腹をくくって楽しんで飲み食いすることに決めた。
 座敷に通されると床の間があって、テーブルは螺鈿塗である。早速、2人の仲居さんがビールと据え膳で鯛と鰤とサザエの刺身と烏賊刺しのウニ和えを運び込んできた。ご当地の麻酔医は「あんたたちは今日のところは2000円ずつ払ってくれ、後はわしが持つ」と大見得を切ったので、広島から来たケチケチグループは一気に景気付いて、博多の地酒・純米清酒『寒北斗』を追加注文した。
 更に、麻酔医は「今日は珍しい人物をもう1人呼んでいる」と言う。待つことしばし、当の人物が現れた。高1、高2の同級生である元朝日新聞の編集委員が姿を現した。現役を退いている彼は顎鬚を蓄え、まるで浦島太郎のように変身していた。
 その後、更に海老と野菜の天麩羅が出てきた。会は更に盛り上がりを見せた。それから全員の記念写真を撮影して、2000円を支払って麻酔医とはそこで別れた。

07DSC_0020.jpg08DSC_0024.jpg09DSC_0046.jpg

 夜の天神の街と地下街を歩いて、地下鉄に乗って、JR博多駅に移動し、セブンイレブンで焼酎『黒霧島』900mlをワンパック買って、ホテルまでぶらぶら歩いて帰ることにした。

 

修道中学6組会『第6回プチ修学旅行』を終えて その3

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―58年前の北九州周遊の旅―

修学旅行実行委員会

 14日(水)朝8時半にホテルを出発し、『博多祇園山笠』が展示してある『櫛田神社』にお参りした。これで『博多どんたく』に行った気分を味わうことにした。
 私たちは一路佐賀県『呼子』(よぶこ)に車を飛ばした。呼子は壱岐水道に面した県境にある交通の便の良くない鄙びた漁村である。言わずと知れた今が旬の剣崎烏賊の刺身を食すためである。予報通り、昼前からしとしと雨が降り出した。雨の中を車窓より海を眺めながら、数多あるお食事処の中で厳選して『玄海活魚』というポピュラーな店を選んだ。昼食であるから運転手2人を除いて、ビールで乾杯し、剣崎烏賊の活造りを年甲斐もなく争って食した。なにしろ、剣崎烏賊の刺身は今回の旅の重要テーマの1つであったからだ。名にし負う美味である。落ちついたところで烏賊シュウマイが出てきて、締めで、食べ残した剣崎烏賊のゲソを天麩羅にしてもらって完食した。

10DSC_0085.jpg    11DSC_0096.jpg    12DSC_0104.jpg

 雨が降り続く中を有田町に移動して、『佐賀県立九州陶磁文化館』の駐車場に車を滑り込ませた。この九州の陶磁器の展示館は、実に清潔な広々とした建物で、その収蔵品は眼を奪うばかりの逸品揃いである。見物人は極めて少なく、おまけに観覧料がタダ、駐車場もタダである。雨も降っていることではあるし、ここでは古伊万里や青磁や鍋島や柿右衛門手等の重要文化財級の展示品をゆっくり鑑賞できた。タダでは余りにも申し訳ないと1000円寄付することに衆議一決した。老いたりといえども、それなりに値打ちのあるものには出費を惜しまない我々学究である。えーと、ここでは一人頭約167円の出費であった。特に地下の一室を占める『柴田夫妻コレクション』はおよそ1000点が展示されていて正に圧巻であった。

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 夕方、長崎市に着く頃には雨も上がり、駅前をそぞろ歩いて居酒屋『魚店亜紗』にしけこんだ。やたらと単品を数多注文して、ビールで乾杯し、焼酎を頼んだ。ここでもたらふく飲んで、食って、お一人様3500円という勘定。後はホテルに帰って、乾き物を摘まみながら缶ビールと缶酎ハイを飲15DSC_0121.jpgみながら、テレビの野球観戦。
 九州3日目。5月15日(木)の朝、ホテルで長崎チャンポンカリカリ風にルーをたっぷりかけて、途中で野垂れ死しないようにカロリーを充分に補給した。旅を終えて後悔するのは目に見えていることであるが、行き着く先で食い意地に負け、こうして徐々に体重を増やしていく。
 今や街の中心街にある『出島』を車中より左手に眺めながら、『グラバー園』に向かった。 グラバー園の入り口には58年前に女学院の生徒と入り混じって写真に写っている『大浦天主堂』がある。さすがに女学院はクリスチャンの学校であるし、わが『修道』も全国に鳴り響いた似非(えせ)クリスチャンの学校であるから、ここで敬虔な祈りを捧げた覚えがあったような気がする。グラバー園の入場料金は障害者と付き添いのナースが半額。残りの老人4人は1人消費税込みで610円。広大な園内にはエスカレーター有り、動く歩道有りで、年寄でも充分見学できるように整備されている。グラバー邸を含む3邸の『重要文化財』だけではなく、総計10軒の江戸、明治時代の洋館を巡った後、最後には『長崎伝統芸能館』があって、重要無形文化財の『長崎くんち』の山車(だし)や『龍踊り』の白龍、青龍が展示されているというサービス精神の旺盛さ。長崎の年中行事もビデオで見ることもできるし、ぐるりとグラバー園を巡れば長崎観光のすべてが凝縮されているのである。石畳の坂を下って行くと、左側には長崎のお土産店がずらりと並んで、売り子が盛んに声をかけてくる。最後になって、これはちょっと興醒めといったところである。

16DSC_0141.jpg 17DSC_0154.jpg 18DSC_0159.jpg

 長崎を後にすると、58年前のコースを辿って、諫早市を抜けて、小浜(オバマ)温泉に走った。ここからは雲仙に向けて、くねくね道の急坂を登って行かなければならない。
 漸く『雲仙天草国立公園』に辿り着くと、そこは昔の鄙びた木造旅館の温泉街は消えていて、ぐっとモダンなホテル街に変わっていた。
 噴煙たなびく『地獄谷』の入り口の駐車場に車を入れて、延々と続く地獄谷巡りを楽しむ。思い出すに、58年前、一人の悪童にそそのかされて、女学院の生徒の泊まっている旅館の裏山に藪をかき分けて登り、天にまします神の御導きにより、浴場を覗きに行った。しかし、天は心の赴くままに行動する我等純朴な修道生2人に味方することなく、およそ50人位の裸形の女子高校生を前にして、さんざ蚊に刺されながらも、むなしく退散いたした次第である。声はすれども、ガラスが湯気で曇っていて、何一つ見えなかったのである。
 ここを先途と過去の妄想はきっぱり切り捨てて、今を盛りと咲き誇る『みやまつつじ』の群落を鑑賞するために『仁田峠』に向かった。峠に着く頃には天候は快晴で、遠くの山並みに雨上がりの雲がたなびき、空は澄み切って、新緑が目を刺すように美しい。まるで、心を洗われるようである。しばし、『みやまつつじ』の回廊を幼児のように邪気を払って鑑賞した。
 雲仙を下ると島原の街に入る。丁度、昼飯時になったので、レストハウスに駐車して、島原名物の『具雑煮』というものを食すことに衆議一決した。『具雑煮』とは、からつの鍋に白菜、シイタケ、シメジ、タケノコ、蓮根等の野菜に小さく刻んだ海藻を加えて、それに餅を2つ落として、それを固形燃料で下からコトコトと煮込むといった勿体ぶった料理である。時間がかかる割には平凡な味の郷土料理である。この料理のみで島原を後にするのは忍び難く、『からすみ』を一人前注文して、一切れずつ食して、お口直しとする。

19DSC_0166.jpg20DSC_0175.jpg21DSC_0183.jpg

22DSC_0185.jpg そのレストハウスの近くに『雲仙岳災害記念館』があるというので、まじめな修学旅行生である我々はこれも見学しておくことにした。二階近くまで火砕流で埋まった民家を災害時の状態のままドームの中に保存しているのである。
 島原から熊本行のフェリーに乗り込む前に、車中より島原城を見学することにした。小さなかわいいお城である。
 フェリーは1時間コースと30分コースがあるが、出航時間の関係から1時間コースを選ぶ。勿論、さして急ぐ旅でもなく、何より安くつくということが最大の魅力である。
 甲板のベンチで海風に当たりながら旅をするというのは、いかにも「旅をしている」という感じがして心23DSC_0187.jpg地よい。
 フェリーで熊本市のはずれの港に到着すると、熊本市の中心部に車を向けた。壮大な熊本城の天守閣を垣間見ながら、樹木の生い茂る城郭の周りを一周した。「これで熊本城は見たよのう!」と運転手が促すと、一同「充分堪能した!」と合唱。一躍、阿蘇へと進路を採った。

修道中学6組会『第6回プチ修学旅行』を終えて その4

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―58年前の北九州周遊の旅―

修学旅行実行委員会

24DSC_0193.jpg  阿蘇では、我々修道健児が58年前に宿泊した旅館『五岳荘』へと向かった。『五岳荘』の看板は『阿蘇五岳ホテル』に変わってはいたが、58年前と同じ場所に木造からビルに変容して現存していた。玄関を入り、受付のオーナーに「我々は58年前の修学旅行でこの『五岳荘』に泊まったのです」と伝えると「58年前と言えば、私が生まれた年ですよ」と答えた。「なるほど、代が変わってもおかしくない年月が経っているのだ」と一同改めて己の年に納得した次第でありました。『五岳荘』はオーナーと適当に歳とった二人の彼の娘とお手伝いのおばさん二人が働いていて、極めてこじんまりとした家族的な宿である。それなりに経営はかなり厳しいであろうと推察された。温泉は入湯税150円を要するが、内湯、かけ流しで何回入ろうが構わないというシステムになっている。早速、温泉に浸かり、浴衣に着かえて、食堂に集合して、宴会の部に入ることに衆議一決した。
 まず、恒例により、生ビールで乾杯した。テーブルには大皿に牛肉が山盛りに用意され、白菜、シイタケ、エノキダケ、もやし、春菊が牛肉に負けずと盛られている。熊本まで来て、馬肉の刺身を食さずに帰っては修道健児の名が廃ると別注文をしたところ姉娘が「五切れ位なら馬刺しもついていますよ」ということなので「それならそれで十分である」と納得した。その他は、鮭の燻製、蕨、とろろに香の物がついて出てきた。肉は脂身が多いので「牛肉じゃろうか?豚肉じゃろうか?」と物議をかもしたが、私が「確か、吉野家の牛丼にはこのような肉を使用している」と強く主張したなら「なるほど!」と全員納得した。阿蘇の地酒を追加注文して、山のような食材をあまたず平らげて部屋に引き上げた。 予約当初は3人部屋で、1人はソフアーを倒しての簡易ベッドということであったが、部屋が空いているということで、運よく2人部屋ということになった。折角、車中で阿弥陀籤まで引いて、正規のベッドの獲得合戦の熾烈な争いを繰り広げたというのに、すべての労力は無駄に終わった。

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 『五岳荘』の朝食はロースハム、温泉卵、きんぴら、糸コンニャク、くまもん納豆。なじかは知らねど、デザートにコーヒーゼリーがついて出てきた。
 
 姉娘に送られて、『五岳荘』を出発したのはいつもの通り午前8時30分。
 あのような至れり尽くせりの《お・も・て・な・し》で一人5000円とはどんなに考えても、ホテル側の割が合わない。きっと「『五岳荘』は赤字に違いない」と全員なんだか腑に落ちない。念のために、会計が車の中で明細を読み上げてみることにした。
「ありぁりゃ?最初に飲んだ生ビールが抜け落ちとるで!あのばあさん、後で怒られるかも知れんで?こりゃ、引き返して、金を払わんにゃーいけんじゃろう?」ということに意見が一致して、『内牧』の街外れまで来ていたにも関わらず、再び『五岳荘』まで引き返して、不足分の生ビール6杯分〆て3300円を支払うことにした。
 受付の姉娘はホテルの前まで走り出て、車が走り去るまで、感謝の意を満面に表して、礼を繰り返しながら、ちぎれんばかりに手を打ち振って見送ってくれた。
 「今度58年後に来た時、『五岳荘』に泊まりづらいけえのー。まあ、これで気が済んだわい」と72歳の老人達は極端にケチな割には善良な一面をも内に秘めているのであった。
 まずは『大観峰』に登って、阿蘇の外輪山の眺望をゆるりと眺めることにした。展望台からは阿蘇の五岳が一望できる。『大観峰』の名付け親は熊本県生まれの『徳富蘇峰』である。58年前、女学院の生徒が外輪山のデコボコ道を我々修道健児の毒牙から身を守るために、賛美歌を歌いながら、隊をなして歩いていたのを懐かしく思い出していた。
 『阿蘇五岳(ごがく)』はまるでお釈迦様が寝そべっているように、向かって左端が顔で、右に向かって、胸、へそと言う順番に見える。6人の老人はよく晴れた澄んだ空気に包まれて、その時まるで心を洗われるような気持でいた。
 一度外輪山の内側に下りて、ナビにつられて、ゴルフ場に迷い込んだりしながら、『米塚』(こめづか)に向かった。山頂が可愛くへこんだ米塚を車窓より眺めながら、『草千里』に到着するとたちまち展望が開けて、二つの水たまりを抱えた広大な草原が目に飛び込んで来た。ここから、噴煙をたなびかせている『中岳』の噴火口は眼の前である。

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 硫黄の塊を売っている商売上手な爺さんが「今日のように、噴煙が右に流れている時は、残念ながら噴火口には近づけません。ここで記念に硫黄を買って下さい」と叫ぶのをしり目に、遥かに見える中岳に続くつづら道を行ける所まで行ってみることにした。600円で通行券を買って、どうにか草木も生えていない殺風景な中岳の山頂まで辿り着いた。
 ガスが流れているので「心臓に障害のある人や喘息の人はご遠慮ください」と注意はされたが、ここまで来て怖じ気づいては、またまた修道健児の名が廃ると硫黄の匂いが充満する中を勇を鼓して前進するのであった。火口の直ぐそばのコンクリートの避難所というか?トーチカというか?までは係員がロープを張って入場を許さないが、見晴し台の建造物までは歩いて行けるので、ギリギリまで噴火口に近づいて溜飲を下げることにした。またいつか、噴火口には挑戦する積りである。

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 温泉は内牧で充分に堪能したし、別府の温泉はパスして、その日に鳥取市まで帰れれば帰りたいという仲間もいることだし、いささか旅にも疲れて来て、少し我が家の寝床が恋しくなってきていた六人の老人は明るい中に広島に着きたいという欲望が芽生えてきていた。九重の山並みハイウェイを抜けて、別府に寄ると広島に到着するのがどうしても深夜になりそうである。そこから、それぞれが自宅に散っていくにはチトしんどいと判断したのである。まだまだ、我々の欲望の旅は今後も果てしなく続くのであるから、ここらで妥協も必要である。勇気をもって中止することが長い人生には大切なのである。
 ひと月後には、また6人の乗員を募集して日帰りで、『大浮世絵展』を山口市まで見に行かなければならないのである。これが第7回目の『プチ修学旅行』になる予定である。
32DSC_0240.jpg 一路、熊本まで引き返して、高速道路『九州自動車道』に乗って広島を目指すことにした。熊本のサービスエリアで950円のチャンポンを食して、最後のグルメ旅行の締めとした。後はサービスエリアで買い物をしながら、気ままに車を走らせることになる。車は中国自動車道に入り、山陽自動車道を抜けて、一路広島に向かった。
 3泊4日の旅は終わった。全走行距離は1217キロ。記録写真の代金一人1000円余。ガソリン代20000円弱。高速料金は半額で20000円を大幅に切り、一人当りの旅行の全費用は35500円を切るという貧乏旅行であったが、内容はと言うと贅沢の限りを尽くしたものであった。
 後日、旅を共にした全員の『修学旅行の感想』が徐々に便りで届いてきた。
 「一生の思い出に残る非常に愉しい旅だった。特に車中での会話が一番楽しかった」と言うのが共通する言葉として我々の歴史に残った。

東京修六会新年会を終えて

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修六会 平成26年1月27日.jpg毎年恒例の東京修六会新年会は127日正午より有楽町外国特派員協会"マスコミ寿司"にて盛大に開催いたしました。

和田幹事の開会の挨拶、黒木君の乾杯の音頭で歓談に移りました。和気藹々と昔を懐かしく語り合いながら、それぞれのテーブルで話に花を咲かせしばしの時を楽しみました。

最後に校歌斉唱、倉本君の一本締めで来年の再会を約束し、閉会いたしました。

当日の出席者は、石崎・梅岡・小方・柏原・粕谷・黒木・倉本・佐藤・武田・中村・福田・山県・渡辺・和田・髙木 以上の16名でした。(敬称略)

                       平成26年 2月 1

                         修六会 参与 髙木 恭之

2014年度『修道12回同期会』を終えて

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2014年度『修道12回同期会』を終えて

                  2014年1月21日()

                     増本 光雄

 

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2013年9月の第一週目の土曜日に同窓大会が開かれた。8月初旬に葉書で180名に案内を出して、当日はリーガロイヤルに同期生が27名参集してくれた。

 この会には近年多い時で34名、少ない時で25名の同期生が駆けつけてくれていたので、この度の大会はぎりぎりセーフの成績と言えた。

 同窓大会を終えると11月に実行する修道中学6組会の『プチ修学旅行』の準備に取り掛かった。

 11月13日と14日の鳥取市への1泊旅行は『蟹すき食べ散らかしの旅』をテーマに中学時代の同級生7人が楽しい旅を満喫した。

 早くも、この旅の前後に12月30日の恒例の『修道中学6組会』(クラス会&忘年会)の準備に取り掛かっていた。

 それと並行して、2014年1月12日()の『修道12回同期会』の準備にも手を付けた。

 『6組会』は出席25名。まずは盛会の内に終えることができた。

 

さて、今回の主要テーマである1月12日の『同期会』に話を移そう。

12回の卒業生総数は360名であった。そのうち住所が判明している者、且つ、この歳になるまで生き長らえている280名に案内を出したところ、出欠の返事の締め切り日までに出席の返事が届いたのは42名であった。

さすがに72歳のこの歳になると「明日をも知れない?」境遇であることを反映して、おじい様方は出欠の返事に慎重になられている様子であった。

そういう事情は充分に理解している積りではあるが仕掛けた方としては気が気でない。

幹事2人はお互いに慰め合って、正月をやり過ごすことに腹を決めた。

こうして、同期生全員に案内状を出すのは、勿論、出席を促して、出来るだけ多くの同期生を集め、会を盛り上げようという目論みが第一目的であるが、もう一つ、同期生の安否とか消息を調べるという重要な情報収集活動をも大切な目標としているのである。

正月明けにボツボツ出席の返事が来るようになって、12日の当日までに62人を数えるまでに出席者の数は増えた。

何とか面目を施すだけの数字を達成できたとホッとすると同時に、72歳の高齢である。人生何が起こるかわからない。必ず、2,3人の急遽欠席の電話が入るものと覚悟を決めていたところ、案の定、前日昼前に2名の欠席の電話通達。「ありゃ!これで瀬戸際の60名になってしもうた」。

一昨年が62名、去年が65名。この1年で7名の同期生があの世に旅立ったとは言え、60名を切るのは世話人としても責任を感じる。

ところが、当日の朝になって、欠席の返事を出していた同期生2人から「急で申し訳ないが、出てもいいか?」という電話がかかってきた。これで62名。「いいどころではない。こちらは大歓迎だ!」とすぐさま料理と酒を追加注文した。

準備万端整えて、当日、受付で同期生の来場を待ち構えていると、いつも返事の来ない飛び込み専門の医者兼病院経営者が悠然と現れた。医者は致し方ない。身の振り方も患者次第である。当の本人は「確か、出席の返事を出しておいた筈なんだが?」と何ら罪の意識も感じていない風情で、いつものように温和な顔をしてニコニコしている。世話人側は[形はどうでもよい]。とにかく、この際『出席』は大歓迎。すぐさま料理1チョウを追加。会場は『アンデルセン』である。一階のパンとハムを持って来て、切って、皿に盛れば、完了である。

ところが、もう一人、丁重な『欠席』の返事が届いていた元東大教授がアノ筋のお方と思われる黒ずくめの出で立ちでエレベーターから降りて来て、受付の前に立った。

その存在自体が信じられないでいる世話人達は一瞬彼が誰だか判別がつかない状態に陥っていた。なにしろ14年ぶりの出現である。彼の方から自分の名前を名乗られて、やおら「あんたからは欠席の返事を頂いているが?」と言うと、「出席と書いた筈だが?」と完全に呆けまくっている。

どうやら、若い時から脳を使いすぎて、もはや、今では記憶の許容能力に限界が来ている様子である。やはり、脳というものは酷使しないで、適当に使用して、長持ちするよう心掛けるのが賢明な生き方であるとつくづく思った。

いわば、彼の場合、「昔日の高性能ジェット戦闘機が老朽化して、現在も大空を飛び回っているという危険極まりない状態にある」といっても過言ではない。

さあれども、わざわざ神奈川県から駆けつけてくれた彼が今回の来場者の中で一番の人気を博したことは誰も認めない訳にはいかなかった。「彼を見ただけでも、この会に来た甲斐があった!」という感想を述べた同期生もいたくらいであった。

「やれやれ、これで出席者が64名になった」と肩の荷が下りたところで、時計を見ると開始予定5分前。『全員集合!』。ありがたや、受付の旧石器時代の美少年4人もこれで解放される。とかく、年寄は暇なうえに、せっかちであるから、こんな時には予定時間内でとんとん拍子に事が運ぶ。

受付で徴収した会費の額もピッタリ。かくて、同期会は和やかなうちに予定の6時30分丁度に開始された。

 

そこはアンデルセン。盛り合わせサンドにナッツ&レーズンパン、各種チーズにポークハムと焼き豚、鳥のテリ焼きに海老と烏賊と野菜の海鮮サラダ、最後にデザートとピラフが出たことは覚えているが、慌ただしさと会の盛り上がりですっかり舞い上がり、後は何が出てきたか見事に忘れてしまっていた。

飲み物は本物のビールにワインに焼酎の水割りに冷酒にノンアルコールのビールにウーロン茶と多種多様。もちろん最後の締めとしては小さめのカップの一杯のコーヒーということになっていた。

 

 

 

司会進行、開宴の挨拶、物故者への黙祷、乾杯はできるだけ手短にして、同期生同士の交流、歓談に多くの時間を割くことにした。会の途中で、初めてこの会に出席した同期生に自己紹介をお願いし、はるばる大阪府から駆けつけてくれた同期生に挨拶をしてもらい、くだんの神奈川県から参加した『高性能旧型ジェット戦闘機』に壇上からの『一本締め』の披露をお願いした

もしも会費が浮けば、写真を送ることにして、まずテーブルごとの記念写真を撮り、同期生同士の歓談のスナップを撮り、最後にひな壇の上に64名全員を整列させて、集合写真を撮影した。

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会場は9時まで予約していたが、何しろ72歳のおじいちゃんの集まりである。8時30分に閉会することにして、例によって、輪になり、校歌と応援歌を唱和して、お開きにすることにした。

テーブルには多くの種類の豊富なパンが手つかずに残されていた。

会計部長が「あのパン、犬に食わすと言って、持って帰ることは出来んかのう?」というので、「一週間ほど毎朝、2匹の犬がコーヒー飲みながらあのパンを食べるのか?」と笑い飛ばした。

世話人が会の費用を精算して、コートの襟を立てて屋外に一歩を印す頃には、同期生は三々五々日曜日の冷たい空気に包まれた街の中に消えていた。

「みんな来年も元気でこの場所に戻って来てくれますように!」と、取り敢えず思い出す手じかな神様にお願いして帰途に就いた。

 

 

 

 

 

『修道中学6組会』を終えて

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『修道中学6組会』を終えて

2014年1月16日()

修道12回  増本 光雄

 

 

EPSON007-1.jpgのサムネール画像 「書き残す」ということは、「時は常に移ろっている」ことと「考えは刻々変化している」ということを考え合わせるならば、書いた端から後悔の連続である。しかし、何事も取り掛からなければ、先へと進めない。かくて、試行錯誤を繰り返しながらも、一歩一歩前に進むしか方法が無い。「後は野となれ、山となれ」である。

去る2013年12月30日()。どうやらこうやら、恒例の『6組会』を終えることができた。確か、この会は30年近く続いている筈である。

 この会は我々昭和16年生まれと、17年生まれの修道中学6組の卒業生で構成されている『クラス会』で、毎年この時期12月30日に集まりを行っている。

 『修道中学クラス条例 第一条 第一項』 この会の入会資格は修道中学に在籍した3年間、共に遊び、良いことも悪いことも共に『学んだ』少年のみに与えられるものであって、数か月、たとえ数か年と言えども、とにかく同じ世界で遊び、同じ教室で学んだ者にはすべて参加する資格があるものとする。

  

 小学生時代は男女共学であったし、思い出はあっても、あまり楽しいものばかりでもなかったような気がする。いわゆる、我々は戦後のどさくさに育っている。低学年では校舎も焼けて、『青空教室』であった。高学年になっても、まずいパンと進駐軍の粉ミルクの給食で育てられ、時たま肝油が配られた。

 中学に入って、やっとこさ、どうにか自分の人生を曲がりなりにも選べる環境が整ってきていたように感じている。とどのつまり、少年は変化の激しい、しかし、自由で、楽しくて仕方のない時代を享受したのである。その付けが一生付きまとうということも知ることもなく。

 高校時代は受験戦争に捲き込まれて、『同期生』と言う共通のエンブレムは有するものの、無邪気に団子になって遊び呆けるというシーンは見られなくなった。

 大学時代はそれぞれが進路を異にして、全国からの寄せ集め集団と化した。

 かくて、イヌコロのように、体をぶつけて、遊びまくった時期である中学時代が、一番団結力も強く、且つ、思い出も濃厚であるということになる。

 その環境を地盤とした中学生時代の『同窓会』が盛り上がらないわけがない。

 またそれだからこそ、言いたい放題、我儘な発言も多々あるが、心を許している仲間の集まりであるが故に、すべての発言がその場のことと水に流すことができ、後にしこりを残すことは無い。

 

 さて、今回の会であるが出席可能な有資格者の数は本来58名。言わば、この数が3年間の同級生の総数である。そのうち、既に鬼籍に入っている者が11名。中学時代の担任の先生も既に鬼籍に入られている。住所が判らず、案内できない同級生が3名。残りの44名にはくまなく案内状を出すようにしているが、残念ながら、寝たきりの同級生もいるし、病気療養中の同級生もいる。はたまた、いかなる理由かは知りませんが、「今後一切連絡無用」というご人もある。

当方、病気で消極的になっている同級生には「たかが脳の血管の1本や2本!たかが心臓の一つや二つ!」と励ましの言葉をかけて出席を促す努力をしているが、敵もさる者、そんなに死ぬのが怖いのか、重い腰を持ち上げることは殆ど無い。

 更に、けしからぬ断りの理由に「当日孫が帰ってくるので」という言い訳を書いてくる者がいる。

 所詮、子供とか、孫なんて、男親なんか目にもくれていない。母親には何でも相談するくせに、父親なんか煙たがって側に寄りつきもしない。

孫子というものは、子孫維持のための重要な因子であることに気づきもしないで「懺悔すべきスケベーな遺伝子は父親譲りに違いない」と信じている節がある。

大体、家庭において、親爺が孫子の尊敬に値するような行動を執るということは金輪際有り得ない。親爺というものは、家庭においてはくつろいだ、だらしのない姿しか披瀝しないものである。孫子は常にぐうたらな親爺の姿を目にしているのが極々普通の家庭である。

孫子というものは、男女に限らず、父親に対してはどこか『不信感』を抱きつつ育つものなのである。父親というものは、孫子にとっては、言わば『反面教師』なのである。これは正しい、立派な教育である。

わが子を育てるのは国民の義務、爺さん、婆さんにとっては、孫はただの玩具にしか過ぎない。あらん限りの愛情を注いだところで、その見返りはこれっぽっちも期待してはいけない。

そういう重要なことも気づかないで「当日は孫が来るため欠席します」とのうのうと返事をよこす同級生がいると思うと実に嘆かわしい。本来、『血は汚し』という大原則にこの歳になるまで気付くことがないのは『呆けの極み』であり、男親の有する動物的な『煩悩』である。

「12歳の年より60年間培った友情と勘違いも甚だしい孫子の愛情の軽重の判別がつかない呆けた老人に成り果てたか!」と思うと最早これまでと引導を渡すしか成す術は無い。

それとも、「孫が帰ってくるもので!」とは欠席することの言い逃れであって、本当は「体調が悪いから」とか「どうも気が進まないから」とか「この会はなじめないから」と言うのが本音ではないか?と疑っている次第である。これはこれで、主催者にいらぬ心配をかけたくないという配慮かも知れないが、実に水臭い仕様である。

 

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さて、忘年会を兼ねた『同窓会』は夕刻5時より始まり、7時に全員の集合写真を撮影し、議論の絶えない6人の居残り組を残して、やれ「腰が痛うて、これ以上耐えられん」とか、やれ「帰りの交通機関が」とか、やれ「もうこれ以上飲めん」とか「もう寝る時間だから」とか言い残しながらも「今日は大変お世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。それでは良いお年を」と両手を差し出すところなどは、まだ可愛さは残している。と言いつつも、同級生は1人2人と再開発の街を横目に地獄に落ちるように闇の中に消えて行った。

 

 今年もこれで終わった。

「来年まで無事に生き延びてくれ!」と心に念じつつ、同窓会で用意することは珍しい、なるべく経費の掛からない、なるべく嵩張って、なるべく重たい手土産を持たせて、三々五々とぼとぼと冷たい闇の中に消えていく栄養過多の老人の背中を一人一人見送った。

ねんりんピック高知大会に参加して (サッカーが生涯スポーツ)

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ねんりんピック高知大会に参加して

(サッカーが生涯スポーツ)

林 孝治(2)

 

26回全国健康福祉祭が平成251026()29()の間、高知県の107町で開催された。

「長寿に輪 龍馬の里で ゆめ交流」をテーマとした総合開会式は高知市の春野総合運動公園に常陸宮・同妃殿下をお迎えして盛大に開催されました。

式典が終わり選手・役員はスタンドに移動してメインアトラクションが開始された。第1章「いのちの海」は、大きな鯨が2頭グランド一杯に出て南国土佐の太平洋を象徴としました。第2章「土佐のスピリッツ」は、白・赤・黒の衣装の男女ダンスがあり、第3章「育まれし文化」は、山間部で継承され二百十余年歴史がある秋葉まつりこが、第4章「土佐の熱き情熱」は、高知から全国に広まったよさこいを正調と現代に分けて披露され、本家よさこいと高知に暮らす人たちのパワーを改めて全国に発信された。フィナーレは高知の豊かな自然・海・山・川をフィールドやバックスタンドを使い、全出演者や観衆が俳優で高知県観光特使の辰巳琢朗扮する坂本龍馬に合わせて鳴子の一丁締めで閉会しました。

小学生が文字と絵で応援横断幕を作成し、総合開会式前の待ち時間と、開会式が終了するとスタンドで昼食を共にし、メインアトラクションを楽しみながら、お互いに交流を深めました。

閉会後、三種目合同(卓球・ソフトボール・サッカー)の開会式が行われ、各種目の最高齢者や高齢者が表彰されました。

サッカーは高知市と南国市で行われ、全国の都道府県と政令都市より60チーム1,061名が参加して、1ブロック4チームで15ブロックが編成され、各ブロックの上位3チームの全員にメダル(金・銀・銅)が授与されました。

今迄と違う高知の「お・も・て・な・し」を紹介しましょう。

マスコットの名前は「くろしおくん」「青色」は海を、「茶色」はねんりんを、「緑色」は森林を、「赤色」は太陽を表しています。

「高知家」のバッチを子供からお年寄りまで全員がつけて、県民全員がひとつの大家族として県内の団結と共に、全国からのお客様を大切に「おもてなし」することに集中したのです。

 

 観光地の高知城、はりまや橋の交差点に案内人を配置されました。

 

 

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修道OBは広島市が林 孝治(2)・藪 正悟(17)、広島県が大内 晟(11)・脇 洋一(15)4名でした。

戦績は広島市が宮城2-0、栃木、高知に1-0で勝利し、金メダルでした。

 

 

広島県は愛知県1-1、京都と東京B0-1で負けて4位で銅にもなりませんでした。6試合中4引分で、もし広島県の2敗が引分であれば全試合引分となり珍記録になるとこでした。

来年は栃木県で開催されます。平素からの練習を大事にして準備しなければなりません。

修道OBの全国各地からの参加をお待ちしております。

偶然の邂逅が生んだ紙面

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       熊本日日新聞政経部記者 太路秀紀(46回卒)

 熊本県の地方紙・熊本日日新聞社で記者をしている。部署は、政治や経済のニュースを追う政経部。主な担当は農林水産業、すなわち1次産業だ。

アベノミクスの成長戦略分野の一つに位置付けられる農林水産業では「6次産業化」がキーワードになっている。1次産業に、加工(2次産業)や販売・サービス(3次産業)をかけあわせた概念が6次産業。国も6次化を進める政策を展開し、いまや6次化は農林水産業における「流行」ですらある。

熊本は全国的にも6次化に熱心な地域だ。豊富な農林水産資源を生かすべく、さまざまな団体が6次化に取り組む。成功事例も多いが、そんな熊本の6次化に冷や水を浴びせる事態が起きた。

熊本県の中央部、玉名市にある農協・JA大浜。正組合員500人ほどの小さな農協だが、経営的にも優良な組織として、周囲で進んだ農協合併にも加わらず、独自路線を進んできた。2011年からは国の政策に合わせて6次化に積極的に取り組み、先進事例として県内外からの視察も多かった。

そんなJA大浜が、6次化のための加工事業や販売事業の失敗から経営を悪化させ、熊本県から業務改善命令を受けたのだ。販路を十分に開拓しないまま、事業を進めた結果だった。

「警鐘を鳴らす意味でも特集紙面で伝えたい」。玉名市を担当する地元記者と連携して取材を進めた私は、6次化に詳しい研究者の意見を添える必要性を感じた。研究者の人選を進めていたところ、たまたま東海大学が主催した食と農をめぐる国際会議を取材した同僚記者から推薦されたのが、東海大経営学部でフードツーリズムを研究する新田時也准教授(34回卒)だった。

推薦された段階では、新田准教授が修道出身とは知らなかった。記者はインタビュー前に相手のことを下調べする。今はインターネットという便利なツールもある。ネット情報は全部を鵜呑みにはできないが、足掛かりにはなる。

早速、新田准教授についてネット上で情報を集めた私は、偶然に驚いた。広島出身、しかも修道の卒業生とある。楽しみにインタビュー当日を待った。

大学の研究室で気さくに迎えて下さった新田准教授に、早速切り出した。「先生は広島出身ですよね」「実は僕は高校の後輩に当たります」。思わぬ縁で、熊本の地でめぐり会った修道の卒業生同士。インタビューは、ときに広島や修道の話で脱線しそうになりながらも、順調に進んだ。

結果、熊本県内の新聞購読世帯でシェア7割を誇る熊本日日新聞に掲載された紙面が以下である。後日、農業関係者から「新田准教授のコメントがあることで、6次化すべてがダメとならなかったのが良かった」との意見も伺った。偶然の邂逅が生んだ紙面は熊本の読者に十分受け入れられたことと思う。

サンデー特報.pdf

 

     

修道高校5回生3年3組 クラス会 平成25年(2013)/11/21メルパルク広島『桃』

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修道高校5回生3年3組 クラス会 平成25年(2013)/11/21メルパルク広島『桃』
(昭和28年3月『白バッジ第1代』担任 妹尾 萬衛門先生)

3年3組、卒業生49名。現時点で既に鬼籍に入った方が14名。残念ながら未だ現住所その安否が不明となっているのが2名。以上を除いて33名に今回80歳(傘寿)を直前にしてクラス会開催の案内状を発送しました。
只今、病気療養中の為、また、当日他の行事とダブリ、『欠席』となった11名。結果22名が参集しました。(予想以上の出席率に当番幹事を引受けた連中は大喜びでありました。)

 

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18:00開会、会の冒頭に、配布された卒業時饒津神社参道の階段で写したクラス全員の写真で物故者14名を偲びながら黙祷を捧げました。懇談では、この年齢になると健康管理が第一。☆現在、格闘している病☆過去に克服してきた症状ナドナドの話で、時間はいくらあっても・・・

  参考までに∞クラス会案内ハガキで皆さんの健康状態を伺いました。結果は①健康 18人(58%) ②就業している 5人(16%) ③病気療養中 7人(23%) ④療養中ではないが、やや不健康 6人(19%)でした。

会の終盤は、恒例の肩を組んでの校歌・応援歌も・・・。二年後となる次回開催時期も意識あわせをして惜しみながら散会しました。元気の出る友達をもとう。元気の出る処へ行こう。

本当にありがとう。楽しかった。

刀禰 敬之 記

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      当番幹事 : 奥山文雄 清水慶樹 塚本祐司 中野眞司 鳴輪久登 山根礼司 刀禰敬之

第一回 三校 OB (修道・基町・海田) 親睦交流ゴルフコンペ開催

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第一回三校OB(修道・基町・海田)親睦交流ゴルフコンペ開催

2013年11月16日(土)に第一回の三校OB(修道・基町・海田)親睦交流ゴルフコンペが、「リージャスクレストゴルフクラブ グランド」で開催されました。修道高校からは、12回生の児玉憲三・盛井浩・橋本洋・山本繁生 先輩の4名と20回生の三田耕治・下久保純一、30回生の松井直也、34回生の古谷公宏が参加しました。順位は橋本先輩の個人優勝、そして三田さん古谷さんの大活躍により、団体優勝致しました。優勝校は皆さんの前で校歌を歌うこととなっており、児玉先輩のすばらしい引率で久しぶりに「安芸の小富士に茜さし・・・」を8人で歌いました。

そもそもこの交流会の発端はバレー部繋がりだそうです。バレー部OBの山本先輩へ知り合いの海田高校バレー部OBの方から話が来たそうです。この交流会は年一回の開催とし、次回幹事校は基町高校となりました。来年は他の高校にも声をかけ、少しづつ規模が広がりそうです。修道高校の幹事長は、12回生の盛井浩 先輩です。再来年は幹事校となりますので、多くのOBの皆様にご協力をお願い申し上げます。

            文責 下久保 純一


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               写真一列目が優勝校「修道高校」のメンバーです。

       古谷(34) 松井(30) 下久保(20) 三田(20) 山本(12) 橋本(12) 盛井(12) 児玉(12)

                                                                                                         

久しぶりの茜会旅行

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久しぶりの茜会旅行                                  

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四年ぶりに、去る十月十九日から二十日にかけて二泊三日で、東北の八甲田の自然に包まれた昔懐かしい山の指宿酢ヶ湯温泉をスタート、十和田湖上遊覧や奥入瀬渓流散策など、夜は奥入瀬ホテルで酒を酌み交わし、昔過ごした修道中学時代に花を咲かせ愉しい一時を過ごしました。

 絶好の紅葉シーズン旅行を計画してくれた植田幹事も自然の力に勝てず、前日から東北地方に寒気が入り、防寒対策をしての旅行となりましたが、皆の精進がよかったのか多少時雨れたりしましたが、あまり傘をさすこともなく寒さも思ったほどでもなく、まあまあの天候で愉しい旅行でした。

植田幹事に感謝々々!!

お互いに高齢になっておりますので五体満足とはいきませんが、半蔵門病院医学博士副院長の小早川先生に体のご指導を頂きながら残された人生を愉しみたいと思っています。

 朋あり、遠方より来たり、またたのしからずや

孔子                                       

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            参加者
            東京組 : 小早川勝登・渡邊寿昭・植田武・正木健一郎
            広島組 : 天野和人・西原雄二  


修道中学6組会 『 第5回 プチ修学旅行 』 を終えて

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修道中学6組会『第5回プチ修学旅行』を終えて

                        

                                                  ―――山陰・鳥取の旅―――

 

 これは長大な計画を実行するための実験の旅である。

 2009年12月30日の修道中学6組のクラス会の席でのことである。仙崎で病院勤務している同級生が「わしのおる中に、仙崎にいっぺん河豚を食いに来いや」と誘ったところ、それはそれ、酒の席であるから、その場で即座に悪童2名が「行く、行く!」と衆議一決した。やがて、年も明け、寒さが旬を迎えるころを見計らって同級生2人が、仙崎を訪ねて、一泊して、河豚をたらふく食して帰った。

1EPSON014.JPG明くる2010年の6組のクラス会で、『河豚の会』を再び開催するという話になり、この旅には先の2人に加えて、総勢5人が参加することになった。
現地の病院勤務の同級生が新幹線の新山口駅にワゴン車で迎えに来た。予定どおり、1日目に『河豚』、二日目に『ヒラメ』をたっぷり胃の中に詰め込んだ。勿論、昼間は温泉、観光地巡り、地元の特産物の買い漁りは欠かせない。おまけに美祢の民間経営の刑務所も見学するという大真面目な修学の旅であった。これより、この旅を『修道中学6組会・プチ修学旅行』と言う名称として、長く後世に残すことにした。

 

 

第3回目のプチ修学旅行は2011年秋にワゴン車に6人が同乗して、『津和野日帰り旅行』に決定した。まだまだ3回位の旅では、素直な中学生時代と違って、70歳の暴れ馬を御し統制を執るだけの赫赫たる自信がなかった。

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かくて、地道な経験と実験を積み重ねて、緻密なシュミレーションの元に、より内容の充実したプチ修学旅行を成功に導くべく並々ならぬ努力が払われた。この日は誠に絶好の秋日和で、紅葉も楽しめ、津和野の街を満喫した。こうした旅は観光だけでなく、意地汚い年寄りの胃袋を満たす飲食の楽しみも欠かせない。それ以上に、一台の車の中に長い間閉じ込められたクラスメートとの交流が楽しさを倍増させた。まさに時間を忘れた法悦の世界に浸る旅を満喫することができた。 

 さて、3回の成功に味を占めて、企画自体を 軽く考えた付けが第4回目の修学旅行の実行に当たって、湧出した。少し舐めていて、計画の立ち上げも遅かったせいもあるが、意外と意外6人のメンバーを集めるのに苦労したのである。漸くメンバーを掻き集めて、『第4回松江・出雲探索一泊二日のプチ修学旅行』を敢行した。全行程2万円を切るという通常なら考えられない低料金で遊んで、食べて、呑んで、観光して、旅を満喫して、無事6人の修学旅行生は広島に帰還したのであった。

1EPSON016.JPGその内容は、『出雲そば』を堪能、『島根県立美術館』を見学、遊覧船での松江城の『堀川めぐり』、居酒屋にて『研修会』、温泉付き『豪華保養所宿泊』、『足立美術館』の見学、最後の締めに『神話博しまね』を一巡して、2日間の強行軍の後に家路につくというものであった。参加者集めに苦労した割には、この時の旅の内容は充実した、大変楽しいものであった。敬老の旅に更に自信をつけたことは言うまでもない。

 

さて、前回に懲りて、第5回のプチ修学旅行は2か月前に人集めを開始した。ところが、今回はなんの造作もなく、とんとん拍子にメンバーが決定し、旅行までの2カ月間を持て余すという問題が出来した。例によって、同級生の『アルファード』8人乗りに、つつがなく全員揃って、ゆったり6人が乗り込んで、2013年の11月13日()の午前8時に広島を出発した。

今回の修学旅行の主要研究テーマは『松葉ガニ』である。松葉ガニの解禁は11月6日である。今年の松葉ガニのご祝儀相場は去年の倍の一匹13,000円で競り落とされた。「一週間も経てば、それ相当に相場も下落するであろう」という予測のもとに、出発日を13日に決めたのである。去年の島根の旅にお付き合いいただいた鳥取大学食物学専門の元教授が「来年は『松江道』も開通しますから、行程も1時間短縮します。来年は是非鳥取市に来てください」という言葉に甘えて、行く先を鳥取に決めた。車の持ち主がすこぶる元気者の障害者であるから、高速道路は半額。県や市や自治体が経営する美術館、博物館等の公共施設に関しては、本人は勿論、付き添い1名が無料になる。これみな、総経費からの割り勘になるのであるから、同行者の経費は当然割安につく。

広島を出発時は快晴であったが、鳥取県に入る頃には篠突く雨。まさに晩春の山陰は予測がつかない天候が続く。三次より料金無料の『松江自動車道』を抜けて、途中、『道の駅』に寄り、昨年、思い残すことがないほど堪能した松江を素通りし、米子インターから『海鮮どんぶり』を探し求めて『弓ケ浜』に入った。結局、昼飯の『海鮮ドンブリ』を探し求めて

1EPSON017.JPGのサムネール画像砂浜と松原を横目に境港まで車を走らせ、観光バスが止まっている海鮮市場の一角にある御食事処『弓ヶ浜』で1、450円也の海鮮丼にありついた。私は「昨日が冷え込んだため大山が初冠雪している」と聞き及んでいた。確かに国道9号線からの大山の眺めは、山頂付近から真っ白な雪を頂いて、雲の隙間からその雄姿をくっきりと屹立させていて、神々しくさえ感じた。

 

夕方の『松葉ガニ尽くし』には、まだまだ余裕があると判断した修学旅行生一行は9号線を外れて、『倉吉』に向けてハンドルを切った。倉吉はあいにくの雨であった。傘をさして、情緒たっぷりな古都を徒然に散策することにした。赤瓦とレトロな白壁の土蔵が続く街並みをそぞろ歩いて、揃って公衆便所でつれションして、倉吉に別れを告げた。次に立ち寄ったのが『三朝温泉』であった。雨は間断なく降り続いていた。寒々しい河原の露天風呂に浸かるのは諦めて、橋の上から眺めるだけにした。メンバーの一人が「この山奥に三徳山三佛寺『投入堂』という国宝がある。これは修験者の聖地で、信じられない位の山の斜面の断崖に建っとるんよ。それを見に行こうじゃあないか?」と主張した。信念の全く欠けた、目的意識のないメンバーであるから、その行動は変幻自在である。即座に、流れに流されて、衆議一決し、次の行動に移るのであった。雨も止み、車でも充分走れる坂道をてくてくと歩いて、漸く『投入堂』の見える場所まで辿り着いた。道路端から無料の望遠鏡で投入堂を交互に覗いて、感動するでも無く、感動しないでも無く、何の感慨もなく、目的を達成して、それでもなんとなく満足して、ニコニコ笑いながら来た道を引き返した。

そろそろ、夕方が近くなった。元鳥取大学教授が設定している居酒屋での研修会の開始時間の18時が迫ってきていた。元大学教授に電話連絡して、本気で、車の進路を鳥取市内に向けた。17時に今夜の宿泊所である保養所に着くと、そこのロビーで元大学教授はニコニコしながら遠来の友を迎えてくれた。実に、延々9時間、片道450キロの旅であった。

 

宿はホテルではなく、保養所を利用するのであるから、設備の割には極めて安価である。おまけに、鳥取市の中心に立地している利便性に加え、大きな温泉の大浴場が設置されている。部屋は広々として、ウオシュレットつきで、寒々しいほどに清潔である。雨は止んでいるが、用心のために傘を持って、鳥取市内の繁華街を横断して、居酒屋『日本海・賀露』に雪崩れ込んだ。

 

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1EPSON019.JPG                                                                                     この居酒屋の費用は、『食』が4,500円、『飲』が飲み放題で2,500円也。〆て7,000円と、この度の旅にしては清水の舞台から飛び降りるくらいの大盤振る舞いである。7人の健啖家は「昼間から大いに腹を空かしてきているし、今夜は酔うぞ!」と気合を入れて暖簾をくぐった。『賀露』の客は我々7人だけ。後程、地元のサラリーマン風の客が3人だけ入って来た程度の入りで、ほとんど貸切り状態。『質実剛健』、並びに『知徳併進』をモットーとする我々修道健児の勉強会にはもってこいの静けさ。2時間半たっぷりと議論できたのである。この日のメインイベント『蟹すき』の具は『松葉ガニ』の足、爪、胴体が大盛りで登場し、シイタケ、ネギ、エノキダケ、白菜もたっぷり。エビ、ブリ、鯵の刺身の盛り合わせも登場し、最後に鳥の空揚げとポテトのフライも出てきて、もう、正直者のおじいさん達は幸せで天国に行きそう。更に、『蟹すき』の出汁に太い、固めのうどんをぶち込んで、啜る。締めはご飯を投入し、それにポン酢を少々たらして、雑炊を作り、食すという贅沢を味わった。しこたま飲んだせいもあって、すっかり酔っぱらった私は傘を忘れて店を出た。途中で気が付いたが、それはそれ、「構わん!構わん!」と太っ腹に取りに引き返す素振りもない。それもその筈、傘は他人の物であった。宿に帰って、温泉に浸かり、特別室の西洋間で蟹カマとちくわを酒の肴に22時まで歓談して、寝に着いた。

 明くる11月14日()。朝起きると、寝覚ましに温泉に浸かり、保養所の食堂で朝食を摂り、元大学教授の案内で浦富(うらどめ)海岸に車を走らせ、入り組んだ風光明媚な海岸線

1EPSON020.jpgのサムネール画像を堪能した。この日は昨日と違って、朝からスカッとした秋日和で、暖かい日射しのもと、車から外に出てもちっとも寒さを感じさせない陽気であった。その陽気のせいか?生徒の一人が宿のクローゼットにコートを忘れているという連絡が携帯に入った。2時間おきのトイレ休憩をはさみながら、曲がりくねった海岸線に沿って車を走らせた。途中、『網代漁港』のお魚直売所に車を止めて、修学旅行生2人が奥方へのお土産に『のどぐろ』を2匹ずつ買い求めた。確かに、元教授が言うとおり、この港では鳥取市にある鮮魚市場『かろいち』よりも4割方安い買い物ができた。

海岸線の砂地の畑で、時季を外れた、しおれたラッキョウの花を観賞しながら、『鳥取砂丘』にある元教授推奨の『砂の美術館』を訪れることにした。「どうせ、子供の砂遊びくらいのこと」と思っていたが、意に反して、これが実に見事な砂の芸術で、美術館は2年前に完成したとのことであった。それまでは、屋外の展示で、風が吹けば、砂が吹き飛ばされ、雨が降れば、砂が流されて、維持が大変であったと聞き及んでいる。一人600円の入場料を払っての見学であったが、ここは実に見応えのある展示作品群で、そのスケールには圧倒されるものがあった。平日にも拘わらず、次から次にと観光客が押しかけて来る。

 

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 今回の出し物は『東南アジア篇』であり、世界各国から芸術家が集まって作品創りにいそしむとパンフレットでも、ビデオでも解説していた。感嘆の声を残しながら、美術館の3階から裏山に移動して、展望台から『鳥取砂丘』を一望した。昼近くに、鳥取市内を抜けて、鳥取漁港にある『かろいち』という観光市場に車を走らせた。境港の魚市場も鳥取市の『かろいち』も松葉ガニは全盛で、コンクリート水槽に値段別に泳がせてあって、大体、上は15,000円位から、下は5,000円位まで水槽にズラッと並んで泳いでいる。実に壮観であるが、観光客目当てであるから、実にお値段もお高いのである。烏賊の時期でないのか?烏賊なんか売っていられないということなのか?この時期、市場には目当ての烏賊の姿はあまり見当たらない。

さて、昼飯はなんにするかということになって、ここは地元の元教授の鶴の一声で、これまでの海鮮料理から一転して、ホテル『対翠閣』の『お食事処・花梨』にて『シイタケのステーキ』を食すことに決定した。一人前1,890円とはかなりのお値段で、シイタケのス

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テーキにじゃがいものフライ、御味噌汁に、キノコご飯とはチト味気ないと思っていたら、『茶わん蒸し』と『うどんすき』と『きのこと海老の天ぷら』が出てきた。それでも、戦後育ちの欠食児童は残さず平らげて、吐き戻しそうになりながら、全員完食した。そのせいで、帰りの長距離ワゴン車の旅はクーラーの中に残っていた缶ビールと缶酎ハイにちくわをかじって済ませることで充分に間に合った。

帰りの旅は道の駅でのトイレ休憩以外一切どこにも寄り道しないで、二人の運転手が交代して運転。13時30分に鳥取市を出発して、広島市に着いたのが18時30分という片道300キロという長い長い道中でありました。一切浮気しないで、飛ばしに飛ばして、ざっと5時間を要する道程であった。結局、この度の旅の一人当りの総費用は19,000円であった。同行のもう一人の元大学教授はワゴン車の中に自分の携帯電話と鳥取大の元教授が気を利かせて持たせてくれた海産物の瓶詰めの手土産を忘れて帰るという呑気さ。忘れ物のオンパレードで、どうにも始末のつかない節操のなさであったが、楽しく、且つ、学ぶものの多い旅であった。結局、体重1キロ増えたのが目に見える記録として残った。

 

この度の旅行記録は「これは長大な計画を実行するための実験の旅である」と言う文章から始めている。これまで5回の修学旅行を実践して、漸く、物忘れの激しくなった老人を引率して旅を続けるという自信のようなものが湧いてきた。そこで、漸く、来年は私達が中学3年生の時に修学旅行で行った『北九州の旅』に挑戦する決心がついた。

今から58年前の修学旅行は『北九州一周』という4泊5日の旅であった。全行程の総費用は一人当たり3,700円と当時のガリ版刷りの用紙に記録が残っている。どのような事情があったのかは定かでないが、1列車借り切るために、『広島女学院』の生徒と同乗することになった。これは空前絶後のことで、この時一回きりのランデブーとなった。ただし、残念ながら、宿と風呂は別々であった。来年の北九州一周の旅には当時の女学院の生徒は誘わないことにしている。理由は簡単、先方さんが年を取り過ぎているということである。

行程は当時と比較して、交通機関の高速化を考慮して、2泊3日とする予定である。全費用は3万円以内に抑えたいと思っているが、これは叶わぬ夢かも知れない。まず、博多で昼食にラーメンを食べて、『福岡市美術館』でミロやシャガール、黒田清輝や青木繁や坂本繁三郎等の絵画を鑑賞して、中洲の街を散策し、夜は居酒屋に繰り出し、豪華に『もつ鍋』で宴会。2日目の昼は佐賀県の『呼子』まで足を伸ばして、烏賊刺しを中心とした海鮮料理三昧。そこから、少し足を伸ばして、有田町の『佐賀県立九州陶磁文化館』にて、高級磁器『鍋島』と『柴田夫妻コレクション』の古伊万里を鑑賞する。夕方までに、長崎まで足を伸ばし、『グラバー邸』より夜景を眺め、その夜の宴会の部は、はたまた『卓袱(しっぽく)料理』の嵐。ほろ酔い加減で、夜の港町をそぞろ歩いて、ちょっと小腹が空いたところで、長崎チャンポンなどを軽く啜って、明日の旅程に備える。3日目はフェリーで熊本に抜け、阿蘇の噴火口を覗いて、指宿で温泉に浸かり、勇躍帰路に着くという強行日程で、広島に辿り着くのは何時になることやらさっぱり判らないという緻密な計画のもとに実行される運びというのが73歳になる修学旅行生の理想とする全行程である。

果たして、実現なるか?夢と消えるか?来年度のお楽しみである。

 

                          文責 修道12回 増本 光雄 

 

 

第13回全国シニア(60歳以上)サッカーフェスティバルに(70歳以上)参加して

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大会期間   2013年5月25日(土)より5月27日(月)まで

会  場   秋田県にかほ市仁賀保グリ-ンフイード
       TDK秋田総合スポーツセンター
       本庄由利総合公園

主  催   日本サッカー協会

参加チーム  函館四十雀サッカー60・宮崎県選抜ほか14チーム(60歳以上)
       函館四十雀サッカー70・熊本オールドキッカーズほか14チ-ム(70歳以上)
                                       計30チーム 
修道参加者  60歳以上 広島県選抜  籔 正悟(17回) 高下一夫(23回)
            ACちば   若山待久(14回)
       70歳以上 広島県選抜  林 孝治(2回)  高瀬正則(9回) 大内 晟(11回)
            東京ロイヤル 森田哲朗(9回)  竹内民雄(10回)  藤田 勉  (13回)
                                       計9名
戦  績   60歳以上 広島県選抜
        1-2 vs宮崎 0―0 vs秋田 2-0 vs石川     Aグル-プ3位
       
       70歳以上 広島県選抜
        0-0 vs京都 0-0 vs東京 4-0 vs秋田     Aグル-プ2位
             東京ロイヤル
        0-0 vs広島 1-0 vs京都 4-0 vs秋田     Aグル-プ1位
       
       60歳以上 ACちば
        0-1vs静岡   0-0vs大阪 0-1vs高知      Dグル-プ2位
                                      (抽選)

会場の付近は「奥の細道」で有名な秋田県由利町象潟(キサカタ)で酒田の北東約40kmで、
昔、東西2.2km南北3.3kmの潟(入江)で湾内に88潟・99島の景勝があり日本海にむかい鳥海山をひかえ
東の松島とともに奥羽の二大名勝地といわれ、芭蕉も「松島は笑うがごとく、象潟はうらむがごとし
寂しさに悲しみを加えて地勢魂をなやますに似たり」と記している。

ところが、文化元年(1804年)月の大地震により海底が2.4m隆起し潟は陸地化し今では
水田の中に点在する小丘に、わずかに昔をしのばせるのみの景とかしてしまなった。
写真は芭蕉が舟を浮かべて遊んだ象潟の風光も地震の隆起で田畑となり、秋には黄金色のみのり
江となります。(参考文献 奥の細道吟行下巻 加藤楸邨著 平凡社発行による)

     雨朦朧として鳥海の山かくる

の俳句がありますが、滞在中は毎日、晴天に恵まれ、鳥海山は雪を冠っておりましたが、
寒くもなく、暑くもなく、最高の気候で楽しくサッカーを楽しませて頂き、
お世話を頂いた皆々様には深く感謝しております。

 

林2.png                  

き2.jpgのサムネール画像

 地震で隆起し、現在農地となった広い土地

 

                                    (高校  2回)   林   孝治   文章
                                    (高校11回)   大内   晟  写真



 

体罰について思うこと

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高校2回 林 孝治 様 より、永年の経験から体罰についてのご提言をいただきました。

ご覧ください。

dosokai.pdf  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和田清治氏出版記念会開催

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平成25年3月20日(水)正午から日本外国人特派員協会の「ますこみ寿司」(東京都千代田区有楽町)において、高校6回和田清治氏の出版記念会が開催されました。


 和田氏は、日米民間外交の一助を担った財団法人吉田茂記念事業財団の設立から解散までをまとめた「日米協会から吉田茂国際基金まで」(中央公論事業出版)を出版されました。

 
 当日の出版記念会には、多数の方の出席をいただき、またハプニングとしてお孫さんの花束贈呈もあり盛会のうちに出版記念会を終わることができました。
(高校6回 髙木恭之)

書籍.png 高校6回.png 

 

 

 

修道中学校昭和31年卒業 4組クラス会開催しました

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 先般お伺いしました中学部を昭和31年に卒業した4組クラス会の幹事のひとり津田です。

お蔭さまで、何十年ぶりの集まりは連絡の取れた級友42名中28名の出席(出席率 約7割)と多くの級友が集まってくれ、
盛大にクラス会を催す事が出来ました。

お互い72歳という齢を重ね、60年前、純真無垢・紅顔の美少年?が3年間机を並べ勉学?にいそしみ、遊びに興じたあの頃を懐かしむ気持ちが多くの集まりに結びついたかなと思っています。

speech.jpg  また、事務局長から預かりました「山田 十竹」先生の冊子並びに同窓会の印刷物も各自に手渡し、且つ、事務局長のご協力で撮りためた今の修道学園をパワーポイントで投影しながらの懇談で、改めて出席メンバーが母校との結びつきを感じくれた事と思います。

 

東京修六会 新年会並びに喜寿の会開催

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東京修六会 幹事 和田 清治様よりお写真とお便りをいただきました。
(東京修六会・・・高6回卒、主として東京在住者で構成)
平成25年1月15日(月) 正午~午後2時まで、日本外国特派員協会 ますこみ寿司にて
恒例の新年会と今年は喜寿の年になることから喜寿の会を開催されたそうです。
この度の出席者は19名。
まずは和田清治幹事による開会挨拶、長久勝之幹事の音頭により乾杯が行われ、その後歓談。
髙木恭之参与の挨拶で閉会とのことでした。

ご報告ありがとうございました。

同窓生だより~最新記事公開!

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高6回 和田清治 様 「東京修六会 新年会並びに喜寿の会開催」
をご報告いただきましたので公開しております。

http://www.shudo-h.ed.jp/dosokai/2013/01/post-37.html

同窓生だより~最新記事公開!

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高2回 林 孝治 様 「ロイヤル(0-70)サッカー東西大会に出場して」
をご投稿いただきましたので公開しております。

http://www.shudo-h.ed.jp/dosokai/contribution.html

ロイヤル(O-70) サッカー東西対抗大会に出場して

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2回 林  孝治

今年で第7回になりました。平成24年12月8日(土)に、国立の絨毯のような芝生の競技場に参加させて頂きました。
東大LB会・東京都サッカー協会・その他の多くの皆々様の献身的なサービスと三菱東京UFJ銀行の協賛を頂き、感謝の念に堪えません。
全国の300余名応募の中から、西軍(白組)80名・東軍(紅組)80名の東西交流試合で、審判は元国際審判員の岡田正義氏他6名が当たられ、写真撮影はフォトグラファーの金子悟氏が担当され、後日、DVDで郵送されます。
サッカーには人間のドラマがありますから、魅力が尽きません。人間ドラマを絵に描いたようなもので、サッカーの魅力を楽しみ、生きる力にするのでしょう。また、大きく長い人生の縮図のようなもので、サッカーに命を捧げても惜しくはないと燃えている慢性サッカー病を患った多くの仲間たちが、全国から、また魅力ある国立に集まってくるのでしょう。
相互の親善を図り、サッカーを通じて、世のため・人のために寄与しようとする仲間たちはなかなかの紳士の集まりで、各人がスポーツへの理解とその価値観を新しく認識し、自分の位置を自覚しています。
参加者の間に年齢の差はありますが、地域差・学校差などメンバー構成には差別化はなく、ただ競技性と遊戯性の共生と共存でお互いが相手を尊重し、楽しく競り合い美しいゲームを行うのです。
そして常に新しい方法を高齢者自身が作り出し、積極的に新しいことに立ち向かう姿勢が、健康的な社会生活を過ごす最も良いことなのでしょう。
大会は10時45分に浅見俊雄委員長の挨拶に始まり、準備運動終了後に6試合が行われました。その後、懇親会で全てのスケジュールが完了しました。
修道からは、写真の左から、高場 利博(9回)・森田 哲朗(9回)・林 孝治(2回)・竹内 民雄(10回)・坂井 忠昭(14回)の5名が参加しました。
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"安芸小富士"から修道学舎を眺める

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平成24年12月14日
修道火曜会(第14回生)
山岳同好会代表 熊野澄雄 

幼い頃から、ずっと眺めてきた"安芸小富士"。修道に入って以来、数限りなく校歌を高らかに歌い口ずさんできた"安芸小富士"。そして、河原町のマンション9階拙宅から、毎日眺めている"安芸小富士"。
ある日、ふと思う。「俺は、一度もあそこに行ったことがないな。みんなはどうなんかいな?行ったという話は聞いたことがないが・・。」と。そう思い出すと不思議である。何か忘れたような、何かやり残したような、そんな焦燥感が心の中に日増しに大きくなっていったのである。
山頂が見えるということは、山頂からピンポイントで探せば、今自分が立っているところは必ず見えるはず。そして、登った次の日から、「あそこに登ったな。あの頂上には、肉眼では見えん鉄塔があって、その下から双眼鏡で学舎を見たんだよな。俺のマンションも見えたな。」と、下見に行った小生がそう思うのだから、きっとみんなも同じ気持ちになるに違いない。
小生の「みんなで、"安芸小富士"に登って、山頂から修道学舎を眺めてみようよ!」そんな呼びかけで、修道火曜会の中に山岳同好会は発足した。8年前のことである。以来概ね年1回だが、広島市周辺の里山登山を実施している。
今年の"安芸小富士"登山は、まだ登ったことのない同志の強き要望に応えて、2度目の登山となった。
山頂までの道のりは、途中から東西南3方向に視界が開ける。青空に海景色が映えて、見晴らしは実にすばらしい。だが、広島市内はなかなか見えてはこないのである。最後の尾根筋をしばらく北に向かうと、やがて航空標識の紅白鉄塔が見えてきた。それを目標に、みんな我先に駆け足で頂上まで一気に登り切った。すると、開けた前方にいきなり広島市内中心部が目に飛び込んでくるのであった。登り初めてちょうど60分が経過していた。
絶好の秋晴れの下、"安芸小富士"山頂で、みんなが歓喜と感動で修道学舎を食い入るように眺めた。しばらくして、小生のハーモニカ伴奏で校歌を声高らかに斉唱したが、その後もまたしばらくみんな見つめておった。「お~い。集合写真撮るけー、早うこっちー来いやー。」といくらおらんでも、ほんとに飽きもせんと、ずーっとみんな見とれとった。いつも我らの里山登山にご参加いただく畠眞實先生も、考え深そうに何時までもじっと見つめておられた。
ここで一句と洒落込む。
「やまこえて まなびやゆめみし あきもせす」("いろは歌"をもじり、"あき"3掛けのあそび心を許されよ。)
さて、山岳同好会の母体であります"修道火曜会(会長:濱野貢年、幹事長:津島則之)"は、毎月第3火曜日に、スピーカーのお話しを聞きながら、気楽に飲み食いしつつ、スタンド"わいわい"にて開催しております。11年に渡って継続しており、今年12月で第140回となります。その他の同好会としましては、鉄道同好会(代表:曽爾征男)、ゴルフ同好会(代表:曽爾征男)、リクレーション同好会(代表:西村槐三郎、大石秀昭)がございます。
第14回生の集まりではございますが、オープン参加を善としておりますゆえ、修道火曜会および各同好会の行事には、ご遠慮なくご参加いただければ幸いでございます。

熊野澄雄 拝

14_akinokofuji.jpg 前列左から畠眞實先生、濱野貢年、古屋洋次、熊野澄雄
後列左から青山栄、西山英岳、小川嘉彦、富永俊夫、臼井健、竹野誠
曽川奎二郎、曽爾征男、下田達郎、中川秀之、西村槐三郎 

 

 

同窓生だより~最新記事公開!

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高11回 大内 晟 様 「ねんりんピック宮城・仙台大会に出場して」
高12回 増本 光雄 様 「松江・出雲」珍道中―修道12回プチ修学旅行―
をご投稿いただきましたので公開しております。

http://www.shudo-h.ed.jp/dosokai/contribution.html

ねんりんピック宮城・仙台大会に出場して

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第25回健康福祉祭は平成24年10月13日(土)より16日まで開催され「伊達の地に 実れ! ねんりん いきいきと」をテーマに仙台市陸上競技場で常陸宮・同妃殿下をお迎えして盛大に総合開会式が行われました。
式典の開式通知は「ほら貝奏者」「伊達政宗公」「鉄砲隊」から始まり、各旗入場・選手入場・炬火ランナー入場・選手宣誓の後アトラクションと続きました。
その後サッカー関係者は主会場の松島町・利府町にバスで移動して開始式に参加しました。
式では最高齢者・高齢者などの表彰が行われました。
サッカーは全国の県・政令都市より64チーム1,134名が参加して4チーム1組のブロック別に編成された中で争われます。入賞したチームには金・銀・銅のメダルが全員に授与されます。
写真ねんりんピック.jpg 修道出身者は写真の左から、千葉市 若山待久(高14回)、東京都 藤田 勉(高13回)、広島市 林 孝治(高2回)、広島県 大内 晟(高11回)、広島市 藪 正悟(高17回)、広島県 脇 洋一(高15回)、続いて弟の脇 裕司(高20回)の7名でした。
戦績について広島県は昨年に続き金・金、千葉市も金、東京都は初めての銀、静岡市は銀、そして広島市は残念ながら3位で初めての、(ドウしても、どうにもならない)銅でした。
4位のチームには本当に銅にもなりません。(何もありません)
来年は高知県で開催されます。金を目途に今から準備しなければなりません。

平成24年11月10日
高11回 大内 晟

   

『松江・出雲』珍道中―修道12回プチ修学旅行―

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 あまり出しゃばりすぎると嫌われる。そうは思いながら、修道学園同窓会のインターネットの書き込みがいまだちょっと淋しすぎると憂慮している。
 そのうち、あふれるばかりの情報がネット上をにぎわすだろうと、大いに期待はしている。有益な、人目を惹きつける素晴らしい原稿が陸続と集まるようになれば、私の暇つぶしのような記事は抹消されてしかるべき運命にあると考えている。
胡麻擂りか、成り行きかは知らねども、一応当局より「お願いします」と頼まれはしたが、投稿をするか、すまいか迷いながらも、まあ、後々のために記録だけは残しておこうとパソコンに向かった。
 さあ、いまから第4回目となる我々12回生の『プチ修学旅行』のお話をいたしましょう。
 2009年から始まった『プチ修学旅行』は1回目と2回目が山口県仙崎の『河豚を食らう会』であった。私はその2回目から参加している。
 3回目は2011年11月3日に『津和野日帰りコース』を楽しんだ。
 さて、今回の旅は『松江・出雲の1泊旅行』に決定した。車はトヨタ・ハイブリッド『アルファード』8人乗りである。
 中学時代の6組を中心に12回生が乗員6人で出発することになった。気楽な旅をするにはメンバー6,7人が一番統制を執り易い。2台になるとなにかとややこしくなるし、気を使うし、面倒になる。この年齢(72歳)になると8人乗りに6人が定員である。長い旅の車内はゆっくり、ゆったり使いたい。この歳になって男同士が肩触れ合うのは気持が悪い。後部座席の酒呑童子はすぐに居眠りを始める。一泊旅行にしないと運転士の2人は酒が飲めないことになる。「老人の介護旅行ではない。酒が飲めないことには大いに異議あり!」。
 計画が決まると、さっそく、資料集めが始まった。メンバーで車のオーナーである同期生は島根県の観光課から直ぐに観光パンフレットを取り寄せた。
 今回一泊する宿はホテルとか旅館とか民宿とかの商業施設ではなく、とある宿泊施設を利用させてもらうことになった。
 この宿は、安くて、ゆったりしていて、清潔で、設備が良く、合理的で、要らぬサービスが無く、おまけに温泉までついているという老人にとって、願ったり叶ったりの宿泊施設である。
 更に、目的地『松江・出雲』の資料は伝手を頼ってご当地の関係者からも有り余るほど持ち込まれた。
 私はパソコンのインターネットで情報の収集を行い、時間的な制約もあるので、この3者の情報をコングロマリットして最も有利な組み合わせで今回の旅を実行することにした。
 ここで困ったことは、日程が決まらないとメンバーを決められないという問題が持ち上がった。
 宿の予約が1月前。更に抽選で宿泊日が決まるのが10日間かかる。決行日までは25日間しか余裕がない。
 10月12日からメンバーの募集が始まった。観光地の混雑を避けて、連休明けの平日の2日間を決行日に決めていたのが苦戦した原因であった。
12回生の爺さんも暇と思いきや、それぞれが暇つぶしに予定を入れていて、20人くらい電話して、ようやくのこと6人を掻き集めるのに四苦八苦する始末。楽しく遊んであげようというのに、やれ、ボランティアだ、ゴルフだ、祭りだ、家族旅行だと友達甲斐のない輩ばかりである。
 6人のメンバーが決定したところで、やおら、鳥取市に拠点を置く同期生である元鳥取大学教授を誘って、松江で合流することに話がまとまった。これで総勢7名になった。
 さて、決行の当日である。11月5日(月)、6日(火)の天気予報は、晴の谷間の雨である。出発の時刻午前9時にはすでに小雨が降っていた。
 
 一路、島根県頓原まで車を飛ばして、奥出雲のそば処『一福』にて6人全員が『破籠そば』を食す。後部座席の連中は無神経にも遠慮なく酒類をたしなむ。
 午後1時半に元教授と『島根県立美術館』の駐車場で落ち合う。
 車のオーナーが「なじかは知らねど」障害者手帳を持っているので本人と付き添い1名は無料。元教授がJAFの会員なので4人は1割引。残りの1人はインターネット割引を使って同じく1割引。7人の哀れな老人にお恵みあれ!
 この美術館は雛には希な立派な建築物で、立地と言い、広さと言い、設備と言い申し分ない。
のっけからロビーにはロダンの巨大な銅像が鎮座していて度肝を抜かれる。この秋の特別展は生誕100年『松本俊介展』である。この館の所蔵品は絢爛豪華で、常設展では『洛中洛外図屏風/誓願寺本』あり、石本正『裸婦立像』あり、藤田嗣治あり、モネあり、クールベあり、伊藤若冲の『鶏』あり、葛飾北斎あり、広重ありと、和洋折衷、多種多彩、名品続出、阿鼻叫喚。
7人の老爺は十二分に芸術を堪能して、疲れ果てて、やおら、テラスに出て、嫁ケ島の浮かぶ宍道湖を眺める。鴨や白鳥が優雅に波間に漂っている。思わず、鴨南蛮が食べたくなる。
 この美術館の展望台よりの眺めは『日本の夕日百選』に入っていて、今回の旅の楽しみにもなっていたが、当日は曇り空で、雲間から穏やかな宍道湖に降り注ぐ午後の日差しだけを愛でることで、溜飲を下げるに留め置いた。
 旅の一行は気を取り直して、松江城を取り囲む『堀川めぐり』を選択した。舟遊びの料金は一人1200syudo12-2.jpg円。ここでも障害者と付き添いは半額。4人はJAFを利用して一人200円引き。
 堀めぐりの所要時間は55分。船中では市の条例で禁酒。運転手以外はクーラーに用意していたビールと酎ハイを慌てて胃に流し込む。
 船は7人で貸切り。運転手以外のほろ酔い気分の修学旅行生を乗せて、緑豊かな水郷を滑るように出航した。お堀端の木々は鬱蒼と繁り、まるでマングローブの林を逝くがごとくである。驚き騒ぐでもない水鳥が戯れる水面を横目に、船から武家屋敷を眺め、民家の軒先の吊るし柿を眺め、小泉八雲の居宅を通過するとこれから終点まで、くぐらねばならない橋は全部で16橋ある。そのうち機械式に屋形船のテントを下げて進まなければ通過できない橋が4つもある。これが子供とご婦人と老人には大うけするのである。我々同級生は頭を打たないように、橋の裏側を見ながら、笑い転げて、船底に、犬コロのごとく這いつくばるのである。この状態で女子大生でも同乗していれば、船賃倍出しても惜しくはないが、そんなに世の中は甘くないと自覚できる年齢に十分達している我々である。ともあれ、純な心で大名遊びを堪能した。
 相撲甚句の歌声に乗せて、我々のプチ修学旅行をもじった替え歌を披露してくれた船頭さんの紹介で今夜の酒宴の場所は決定した。
 まずは、松江城をバックに記念写真を撮り、2台の車で今夜の終の棲家に向かった。黄昏時の宍道湖湖畔の『一畑電鉄』沿線を車を走らせて、迷いに迷って宿に辿り着いた。なぜ、迷ったかというと、この宿は一般に公開されている宿泊施設ではないので、案内の看板もほとんどなく、山手の住宅街のはずれの木立の中にひっそりと建てられていたからである。
 その宿は鉄筋4階建。我々の部屋はその3階にsyudo12-3.jpgあり、3人、2人、2人と3部屋に別れた10畳の和室であった。一人一泊4500円であるが、関係者は1800円、準関係者は3800円と2人分は割安である。勿論、宿泊料金は7人の均等割りである。温泉の入湯税は一人150円。何回入浴しても料金は同じ。浴槽から宍道湖が見渡せる絶好のロケーションである。
 7人は早速温泉に浸かり、腹をすかし、さっぱりして、タクシー2台で松江の飲み屋街に繰り出した。厚生年金暮らしのアルバイト船頭の紹介なので「さして高くはつかないだろう」と話しながら、着いた所は、お食事処・魚料理『かねやす』という駅近の繁華街の裏通りにある料理屋であった。
態度は大名であるが、恥ずかしながら、その実態はケチケチ旅行である。もちろん、ケチを楽しんでいる面は存分にある。街中の居酒屋で地元の人とワイワイやるのが本来の正しい修学旅行生の姿であると認識してはいるものの、他人は許せなくとも、自分たちだけに対しては多少の脱線は大目に見る寛容さは備えている積りであった。
「『かねやす』とは金安とも読めるし、料金もあんまり高くはないだろう」と高を括って、勢いで2階の座敷になだれ込んだ。7人全員の総意で、ここを本日の『通常総会』の場に定めた。
 まず、烏賊の煮付けの突出しにビールで乾杯。次に刺身の盛り合わせを注文。
記念写真を撮影している間に、束の間の隙を突かれて、ウニとかブリとか烏賊とかサザエの刺身は見事に総会屋に攻め落とされていた。「異議あり!」。
あの純な友情はどこに消え去ったのか、幼馴染といえども油断も隙もない。総会の場である宴会場はまさに戦場と心得なければならない。
 食品専科の元鳥取大教授のご指導のもと、ご当地名物のモサエビの塩焼き、ノドグロの素焼き等を堪能した。シャン、シャン、シャンと総会の手打ちをして、『かねやす』を後にしたのは、陽もすっかり暮れてからであった。一人当たり4500円の出費であった。
月曜日の夕刻8時半。夜の戸張りの中を、静まり返った松江市内を散策して、とある一軒のラーメン屋を探しあてた。ここでラーメンと餃子を注文して、ビールで乾杯して、人心地着いたところで、タクシーを呼んで宿に帰還した。時刻は門限午後10時の30分前。元教授持参の手土産『緑水園の竹するめ』を酒の肴に一杯飲んで早めに寝についた。
 
あくる朝400円の朝食を済ませて、7人は2台の車で安来市にある『足立美術館』に向かった。またもや、車中は雨また雨である。
 この美術館は、『足立全康』という不動産で一代を築いた地元の資産家が5万坪の大庭園を造り、それを借景に広大な平屋の建物を建設したものである。駐車場だけで、敷地はカープ球場にも劣らない位の広さがあsyudo12-4.jpgる。全国各地、遠くは東北、関東、関西方面からも観光バスや自家用車で庭と絵画を鑑賞に訪れる。そのほとんどがパワーあふれるおばさん連中である。
 所蔵作品は横山大観の作品『紅葉』を始め130点。そのほか、日本近代絵画の竹内栖鳳、橋本関雪、河合玉堂、上村松園等の作品を収蔵し、魯山人、河井寛次郎の陶芸の展示場もあり、平櫛田中の木彫もある。おまけに、地下通路を抜けた2階建ての別館では絵画の大きさばかりが目につく迫力満点の秋の『院展』を開催していた。
 しかし、なんと言っても、この美術館の売り物はその広大な庭園である。見渡せる全山を庭園化していて、世界的な評価も高く、庭園では『10年連続日本一』という折り紙つきである。これは一見の価値がある。
 遠く山上から不自然な滝が落ちていて、時たま、目を凝らしていると、木立の間から手入れにいそしむ白い作業車が見え隠れするのはお愛嬌である。
 さすがに、これだけの庭園。銭もかかる。入館料は大人1人2200円也。ここでも障害者のsyudo12-5.jpg特権を使い、2名が半額。JAFで4名が1割引。

 午前中に足立美術館を修学し、高速道路を利用して、神話の国『八雲立つ出雲』へ針路を向けた。
 出雲平野に入ると、二階建ての建築物さえ見当たらない。広々とした葡萄畑が続く田園地帯を7人は昼飯を探して、そぼ降る雨の中を2台の車でさまよった。食堂、ファミレス等は一切見当たらず。雨の日の車中でのコンビニ弁当では修道生のプライドが許さない。
 『神話博しまね』の会場に辿り着けば、「昼飯くらいはありつけるだろう」と気楽に考えて、少し離れた駐車場より、奇跡的に雨の止んだ濡れた歩道をそぞろに歩いて会場に向かった。ところが、会場近くの食堂は火曜というのに一時間待ち。
 「出雲地方に行かれるのでしたら、是非、立ち寄ってください」との地元関係者の方のご好意で、ありがたく頂戴した『神話博しまね』の入場券(800円)を使って、博覧会の会場に繰り込んで、仮設テントのフードコーナーで7人分のパック物のちらし寿司とペットボトルのお茶を購入し、雨で濡れたテーブルとイスを拭いてもらって、ようやく昼飯にありつくことができた。
 7人は腹をsyudo12-6.jpg満たすと、『神話映像館』の入り口で午後3時に落ち合うことを約束して、いよいよ、1300年もの時を超えた異次元の世界に勇躍と躍り込むことになった。
まず『神話シアター』でオオクニヌシノ尊と因幡の白兎の神話を30分間鑑賞した。ここで恒例の午睡をとる絶好のチャンスを逃した。そのほかの展示物は古代出雲大社本殿の大型模型、荒神谷遺跡で発掘された358本の銅剣、加茂岩倉遺跡で発見された大量の銅鐸等が主たるものであった。
会場内ではばらばらに行動していた7人は待ち合わせ場所の『神話映像館』で合流した。ここではスサノウノの尊とヤマタノオロチの大立ち回りを大音響の大型スクリーンで堪能した。豪雨は天井をたたいているし、安眠の場所と踏んでいた暗闇が一転にして、騒音の場所と化していた。そのせいで、昨日今日となんの罪も犯していない7人の善良な市民はすっかり眠気を覚まされてしまっていた。
 出雲では、この秋『古事記1300年』のイベントが目白押しである。その様子は連日テレビ番組や新聞各社で取り上げられている。
 出雲の博覧会を堪能し尽くした後、ここで急遽『臨時総会』を開催することにして、今回の旅の総決算を会場内のティールームでココアを飲みながら挙行することに決定した。
 鳥取市に引き返す元教授の経費が15600円。残りの6人は広島に到着してから精算することになった。黄昏の国道9号線で、元教授と東西に分かれて、我々6人は晩秋の荒海を眺めながら9号線を西へ西へと走って江津に向かった。
 山陰自動車道に入る手前の益田市の『道の駅』で熱いうどんを食すことに衆議一決した。「異議なし!」。
 ここで温かい腰のある肉うどんを堪能して、2日間遊びほうけた中高年はおかみさんに手土産を買って帰らなければ、家に入れてもらえないことにハタと気付いた。お土産をしこたま買い込んで、一路、浜田高速道を抜けて広島市に帰り着いたのは夕刻7時であった。2日間の旅は終わった。
 最後に、この度の旅の総決算をすることになった。障害者手帳のご利益で高速料金は半額。ガソリン使用は 50リッターで、7500円の6分割。走って、飲んで、食って、寝て、学んで、遊んで一人当たりの総経費は〆て19,400円。遊びほうけた2日間の総決算である。
 尚、ここに登場する同期生の姓名は、あらかたの他の学年の方々には無縁なものであるし、それがかえって煩わしく思われてもいけないので、文章の中には敢えて入れないことにした。
 
≪旅の印象≫
不運なことには、今回の旅は2日間とも天気予報では雨だった。確かに、雨にはよく遭遇した。広島市を出発する時には、既に雨が降っていた。
松江に入っても雨が迎えてくれた。二日目の朝も雨模様であった。足立美術館へ行く途中も小雨が降った。美術館を出ると、出雲までの道のりはずっと雨であった。『神話博しまね』の展示場から展示場を移動する時も雨は降っていた。特にラストの『神話映像館』の特設会場の天井には激しい雨音が叩きつけていた。
 けれども、出雲の神々は、我々7人の善良な修学旅行生を最後まで見捨てなかった。行き着く先々で、我々が歩いて移動するときに限って、快晴になることはないにしても、ともかく、雨は止んでくれていた。そのため、空気は澄み、紅葉と緑はみずみずしく美しく輝いて見えた。老人にとって気温も快適で、徘徊もなく、一人の迷い児も出さず、予定の行動のすべてをクリアーすることができた。
 あらゆる神々のご加護に感謝しつつ、ここにパソコンを閉じる。

修道12回 増本 光雄
2012年11月26日


 

12回へのご招待 増本光雄(高12回)

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 2012年4月27日(金)。修道学園の同窓会事務局に同窓会報№77を5部ほど分けてもらうために伺った。学園の近所に所用があったので、「もしいただければ、もらっとこう」という軽い気持ちで寄らせてもらったのである。
 うら若き女子事務員が応対してくれて、冊子は気持ちよく手渡してくれた。
 「次号から年1回の発行になります。その代わり、カラーページになります。これを契機に、各学年の卒業生の方にお願いして、同期会の記事を掲載させていただきたいと思っています。ぜひ、12回の記事も載せていただきたいと思います」と口説かれました。
 かたちはいかようであろうとも、うら若き女性に口説かれるのは、かれこれ数えて、40年振りのことであった。
 「書くのはさして、苦労だとは思いませんが、さて、『誰のことを?何を題材に?』となるといろいろ差し障りが出てくることもございまして・・・」と言葉を濁しますと「ご無理にとは申しませんが、できましたら、ぜひお願いいたします」と真剣な素振りで懇願された。71歳の爺さんにとってみれば、うら若き女性の真剣なお願いは立派な無理強いなのであります。
 という次第で、さっそくパソコンのキイをたたいている次第であります。
 わたくし、この年になりまして、近年、『文章は世の中を変える力をもっている』と信じるようになりました。ということで、「これはと思う機会さえあれば、発信は厭わない」と思うようになりました。かといって、あまりでしゃばりたくはございません。
 とやかく勿体ぶって言ってはみるものの、思慮を重ねた末、至極簡単に、うら若き女性の口車に乗って、駄文を書いてみることになりました。

120625-04.jpg さて、私達12回生はこれまで一年に一回1月12日に同期会を開いてきました。28歳から開催しているので、今年でかれこれ42回は続けてきたことになります。
 しかし、多少マンネリになり、出席人数も年々減少傾向にありました。そこで、今までの幹事が体調を崩した隙をついて、幹事の位をのっとって、内容の一新を図ることにしました。
 そこは言うに言われないテクニックを使いまして、なんと一挙に50パーセント以上増しの出席率を保持したのでありました。
 また、この度の同期会には52年ぶりに出席したという、自ら名乗ってもらわなければ全く誰か解らない同期生が6人もいました。平たく言えば同期会に対して処女体験であるという浦島太郎のような人もいたのです。こういう人をどんどん常連に繰り込んでいくのが世話人の務めであります。そのためには、同期会を更に魅力のある会にするようあらゆる努力を惜しまないようにしなければならないと内々で申し合っております。
 調子に乗って、来年度はさらに今年度の30パーセント増しの出席者の増加を目標にすることにしました。つまり、一学年で80人以上の出席を目論んだのであります。
 現実を申しますと、毎年一学年80人以上の出席という数字は、71歳になる我々にとっては非常に厳しい数字であります。
 2012年度のコンセプトを(1)リーズナブルにすること、(2)交通の利便性を考慮すること、(3)椅子席にすることの3点に絞って実施しました。これが大成功とまでいかないにしても、大きな成果を生みました。
 かなりの同期生が、この会の出欠を迷ったということを後で聞きましたので、まだまだ潜在的な出席希望者はかなりいるものと踏みまして、次回はもっと大人数の楽しい会にしようと案を練っている次第であります。
 ということで、来年度は(1)年齢を考慮して、気候の良い時期を検討してみる。(2)一番出席し易い曜日はいつか?を検討する。(3)ゆとりのある、自由に交流できる収容会場を探す。この3点をコンセプトに持ってこようと思っています。

 私たち同期生は、この年ですから、あらかた第一線を退いた者が多くを占めておりますが、まだまだ未練たらしく、世間で活躍している者もいます。
 少し昔話になりますが、果敢にもどこかの市長に挑戦した元気者の同期生やら、なんたら商工会議所の会頭とか、『誠備グループ』を取り仕切っていた株屋さんとか、住吉連合会の自称ナンバー4とかいうちょっと世間からはみ出した人とか、人間の能力にさして違いがあるとは思いませんが、善悪織り交ぜて、まだまだ多くの同期生が人力ではどうしようもないくらい混沌としたこの世の中で活躍しています。その生き方は結構多種多様で、私たち同期生を楽しませてくれています。
 もちろん、同期会には善良な人しか出席しませんから、私がこの提出レポートで少々失礼なことを書こうと、小指を切られるようなことはありません。
 年を重ねていきますと、女房を含めて、孫娘以外の女性に相手にされなくなるに正比例して、同期生に会う楽しみの比重が増してきます。同期生との交流会は、今や私たちの『愛のゆりかご』なのでございます。
 ということで、同窓大会にも私たちの同期生は例年25名から多いときは35名くらい出席させてもらっています。
 これはただ単に、片道切符の案内ハガキを170枚前後出すだけであります。ハガキの費用は先の『同期会』の出席者が多くなれば、必然的に経費が浮いてきますので、それを流用させてもらっています。同窓大会には出席しようがすまいが本人の意思に任せているので、世話人の負担になることは一切ありません。とはいうものの、多くの同期生が集まってくれるに越したことはありません。
 同窓大会は同期生だけでなく、多くの先輩やかわいい後輩に会えるのも楽しみの一つであります。これはこれで有意義な大会だと思います。

120625-05.jpg さらに、もう一つ修道中学の時のクラス会というものもやっています。これは全クラスがやっているわけではありませんが、育ち盛り、生え盛り、付き盛り、遊び盛り、いたずら盛りの年齢ですから、これがまた、思い出すだけで愉しいのであります。
 「あの時、ああだった。こうだった。」というお話だけで、立派な会合が成立するのですから、これまた、見上げたものであります。
 ところが、私たちは70年以上もそれぞれが得も言われぬ荒波を潜り抜けてきた自称『睾丸の美少年』ですから、大病の一つや二つはクリアーして、ここまで、生きて来ています。残念ながら、アルコールを受け付けない体に堕している輩も多々いるのであります。いまや、多くが『抗癌の美少年』と化してきているのであります。
 同級生とはまことにいいもので、同席いたしますと、そういう輩もウーロン茶で完全に出来上がるのでございます。
 そういう愉しい会から、派生的に生まれてくるのが『ゴルフ大会』とか『プチ修学旅行』であります。
 プチ修学旅行は、今のところ、日帰りか、せいぜい一泊で、大体6人くらいの人数で挙行しています。この人数が丁度8人乗りワゴン車に無理なく乗れる人員でありますし、自由勝手な振る舞いに及ぶ傍若無人な赤子のような老爺の統制を執るには理想的な員数なのであります。行方不明になると、参加人員の携帯番号を把握していて、電話をかけて探します。
 大体、履行前に、その時のテーマを決めておきます。『人類の平和について』とか、『日本政治、経済の行方』とか『世界の趨勢』とか、『地球の温暖化の問題』とか、『病理学的見地から検案する中高年の傾向と対策』とか非常に重い課題を、温泉につかりながら、はたまた、地方の名物料理を前にして、居酒屋で語るのを『通常総会』としております。
 また、できれば、酒を飲まない運転要員を2名以上確保しておくこと、車の所有者はなるべく障害のある者がベスト。なぜならば、高速道路料金が半額になりますし、駐車料金がタダのところもあります。更に、美術館及び公共施設が付き添いを含めて2名がタダになります。みんなで割れば、かなりの割引になり、それだけ余計に酒が飲めるという計算が成り立ちます。それに、70歳を越しますとただになる施設が多いという有利さが俄然幅を利かせます。後輩の方々にも「早く来い来い70歳!」。

120625-06.jpg 『荒淫矢の如し』(どうも、パソコンの調子が悪いようであります)と申しますが、若い時は元気で夢も希望もありますが、年を取りますと月日が経つのが速いこと。これも人生に『感動』というものが、だんだん無くなってきているせいだと思います。
 後輩の諸君には、特に力説しておきますが、人生は一度きりです。今度生まれてきたらミジンコに生まれ変わるか、カゲロウに生まれ変わるか、クラゲに生まれ変わるか、イワシに生まれ変わるか判ったものではありません。それともこの地球上から影も形も消滅してしまうかも知れたものではありません。
 どうも、年を取りますと、落としどころはこういうお話になりますが、結局は『死に際の美』を探し求める人生に切り替えざるを得ないということになるのであります。
 さて、楽しいお話はこれくらいにして、そろそろ私のお話は終わりにしようと思います。つきましては、これからも12回をよろしくお願いいたします。広島に暮らしていて、これほど頼もしい同窓生はおりません。これからもっともっと横にも縦にも連携を強めて、その絆を精一杯有効利用して、有意義な、愉しい残り少ない人生を謳歌したいものだと思っております。
 最後に、権威ある『修道同窓会誌』にふさわしくない言動が多々ありましたことを深くお詫びいたします。呆け老人のたわごとと思召して、心を広く開いて、気持ちよく受け入れていただければ幸甚に存じます。

2012年4月29日